11日目 決断疲れからの解放 2
- 人間の脳は決断によって疲れる。
- 決断には「無意識の決断」「意識ある決断」があって、このうち「無意識の決断」は「決断回数を減らす」ことによって疲れを軽減できる。
- 「意識ある決断」はより長いスパンを見た決断になることが多く、同じようにはいかない
という話を8日目にした。
決断をすることは、「天秤にかける」と表現されることがある。決断に必要なプロセスを、このことわざで喩えなおしてみると次のようになるだろう。
- 情報収集(天秤に乗せるもの=おもりを探す)
- 選択肢の列挙(何と何を比較するかを決める)
- 選択肢の採択(天秤におもりをのせる)
天秤にのせるおもりは、すなわち「決断するための要素」である。この要素は、「客観的な事実の要素」と「精神的な要素」に分けられると考える。「決断」自体はこのうちの「選択肢の採択」にあたる。
「精神的要素」同士や「客観的事実の要素」同士は、質的に似ているので比較しやすい。決断を難しくさせるのは、性質の異なるこれら二つふたつを天秤にかけなければならない状況である。
客観的事実は、それ自体が絶対的な尺度を持つものだったり、数字を伴っていて定量的に扱いやすいという特徴がある。一方で、心については「悲しい」「楽しい」など、定性的に把握することが多い。
精神的要素を定量化することが、決断を簡単にしてくれるという推察は大きく間違っていないように思う。
3に続く。
10日目 死亡ログ
9月10日
森を焼いたら焼け死にました
タワーから落ちました
渓谷に落ちました
9日目 マインクラフト沼に落ちそう
こんなに平和で奥が深いゲームだとは思わなかった
8日目 決断疲れからの解放 1
人生は決断の連続だ。人は1日に数万もの決断をしているという。
そしてこれは人から聞いた話だが意思決定によって脳は「決断疲れ」をしてしまうらしい。行動に使うはずの脳のメモリを決断に使うからだ。
決断疲れを軽減させるには、「決断する回数を減らすこと」が一番だ。
やりたいことを順序立てて一つ一つ片付ける。
毎日やらなければならないことは習慣化して決断せずとも体が動くようにする。
同時並行で作業をするマルチタスクは決断の連続になるので出来るだけ避ける。Youtubeでもなんでもその方法を紹介してくれる人はたくさんいるので参考にしてみるといいだろう。
バカになりたくなければ、マルチタスク(MT)をやめなさい 前編 - YouTube
ところで、決断には2種類あると考える。「無意識の決断」と「意識のある決断」である。
マルチタスクが「今この瞬間どちらの作業をするか」という「無意識の決断」を毎分毎秒迫るように、「無意識の決断」一回一回は影響範囲が短い。
「サッカー選手がどこにシュートを打てばゴールを決められるか走りながら判断する」ような一瞬のものである。
積み重なって人生に影響してくるタイプだ。
「意識のある決断」は「晩御飯のメニューを決める」ような日常的なものから「志望校決め」や「転職するか否か」など、人生のさまざまなフェーズで現れる。
「決断疲れ」を軽減する話に戻ろう。
「無意識の決断」は「決断を減らす」ことで軽減できそうだ。無意識の決断の中には避けるべきもの、効率化のために省けるものがたくさんあるからだ。
一方で「意識ある決断」はそうもいかない。
軽視するという意味でなく、「意識ある決断」をラクにする方法はないだろうか。
後半へ続く。
7日目 書き続けるには
生徒時代の僕は「自由作文」が嫌いだった。
作文自体が嫌いだったわけではない。必要な知識を辞書やネットで調べ、文構成のテンプレに落とし込む手順に難は感じなかった。
書きたいテーマが全く浮かばないわけでもなかった。自分独自の感性・価値観は未熟なガキなりに持っていた。
その気持ちは恐怖に近かったかもしれない、と思ったのが、十年前後経ってまいにち投稿2019の7日目を迎えた僕自身である。
恐怖、といっても色々な言葉で表せるが、自由作文に限らず創作活動全般を「自分の身を削る行為」だと認識していたように思う。
「創作とは自分の脳の中にあるモノを外界にさらけ出すことである。作品という形で外に出た思考は自分から切り離され失われてしまう」。言葉にすればこんな感じだ。
去年のまいにち投稿でも、青春時代に経験したこのどす黒い感覚に苦しめられた。
見返してみると、豆知識や使っているものの紹介・自分の哲学などが合わせて5割ほどを占めていた。それらは、すでに自分の中にある知識を外に出す記事である。この書き方では、「自由作文と言いながら、書けるテーマは自分の頭になかで完結しているものだけになる」。30日連続でこの形式の作文ができるとしたら、彼は相当な雑学王だろう。
今年は、その日感じたことから着想して「外の世界について感じたことをエッセイとして出力する」ことにしているおかげか比較的ラクに続けられている。
自由作文を怖れていたころと比べれば、それを複数日持続できている今を誇りたい。
拙文ながら、このリハビリに今年もお付き合いいただけると幸甚の至りである。
6日目 許せないマン
〇〇許せないマン。
主義だとか価値観という仰々しい言葉を使わないまでも、行動選択について(絶対というほどでもない)こだわりを表すときに僕はこの言葉を使います。
誤解を避けるために行っておくと、「許せない」というのは「自分の行動として表したくない」ということであり、他人の相違する意志については赦します。なじみ深いところで例を挙げると、「あんぱんの餡はつぶあんじゃないと許せないマン」です。こんな感じのこだわりは誰しも一つは持っているのではないでしょうか。
ここで「開封した菓子パンを包装紙の上に置くの許せないマン」の友達とした話について紹介します。
彼は「開封した菓子パンを包装紙の上に置くの許せないマン」であると同時に「開封後食べかけたパンを袋に戻す」ことは許容できるとのこと。
反対の考えでありながら、話を聞いていて僕は興味深いと思いました。
彼は「袋の外側と内側にはっきりと別の意味を見出している」という点で僕にない視点を持っていたのです。丁寧に物事をこなすのが得意な証左になっているなとも感じました。単に「潔癖症だな」で片づけていた人たちへの見方が変わりました。
他人の持つ「やや強めのこだわり」を知ることは、自分にない見地を発見して、同調するまではいかなくとも、偏見を取り除くきっかけになります。気の置けない人と話すぶんには話自体も盛り上がりやすく、おすすめです。異なる意見のぶつけ合いをするわけですから、相手の意見を尊重することは忘れないようにしましょう。
ちなみに僕は「犬や猫の動画に人間のセリフを当てるとき、ワンやニャンとつけるの許せないマン」でもあります。
「犬や猫に人間の言葉をしゃべらせるなら、人間のしゃべり方をさせろよ」と突っ込みが入ってしまうのです。
人間はワンとかニャンみたいな語尾をつけてしゃべらないですし、全くおかしな話d・・・
どうやら、また新たな視点を得てしまったようです。
4日目 イギーがかわいい
ワ〇ップ〇ョルノの動画から入ってジョジョアニメ1~5部を完走したPmanです。
最近、第五部のアニメ放送が終わってから続きが気になりすぎて、ジョジョの奇妙な冒険公式アプリをインストールしました。ジョジョシリーズの漫画を一日3話ずつ無料で読めるアプリです。現在第6部「ストーンオーシャン」を少しずつ読んでいます。
このアプリの中に「イギー育成ゲーム」なるものがあります。
イギーはジョジョの奇妙な冒険の第3部に登場するスタンド使いのイヌで、好物はコーヒー味のチューイングガム。高い知能と行動力から身についた人間に媚を売らない肝の据わった性格が魅力です。
エサを与え、清潔に保ち、散歩に行かせることで親密度を上げるという、手間のかからないシンプルなゲームですが、イギーの性格上親密度を上げるのに少し根気がいります。
エサを挙げたときの表情がイギーらしかぬかわいさです。このかわいさを見てほしくてこの記事を書きました。
イギーかわいい pic.twitter.com/RBoVI5BBsh
— ぴーまん (@crowingspear) September 4, 2019
チャンチャン。