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ColumbusのたまごColumnブログ

27日目 子どもを生むことの倫理的問題を解決するには

※この記事における「生む」という言葉は「親としての意思を持って子どもを設ける」という意味で、出産そのものを指す言葉ではないことに留意されたい。

 

インドの男性、サミュエルさんが自分の両親を相手取った裁判の準備をしているという記事を見かけたのは今年の2月のことである。

www.newsweekjapan.jp

訴えの内容は「自分を産んだことに対して、同意がなかったこと」。

同意なく生まれたことを理由に苦しんでいる人へ、「人は本来親に対して何の借りもない」とし、子どもを設ける親に対しては「子どもを投資のように扱うのはやめなさい」としている。

サミュエルさんの考え方は「反出生主義」というもので、「子どもを生むことの倫理性を疑う」考え方である。

センセーショナルな意見であることは否定できないし、感情的に「親に感謝をするのが当たり前。罰当たりだ」と思えてもくるが、一度その「当たり前」は置いておいて、根本にどんな考えから主張しているのか汲み取ってみたい。

 

 

「出生」は同意不可能である

子どもと大人に限らず、人間同士のつくる関係には「約束や契約」があり、約束のもとにお互いは対等である。

雇用契約が守られる前提で雇用者と労働者は対等であり、お互いに相手から精神的・物質的な価値を享受しあっている。友達同士の関係にも暗黙の了解という約束がある。

結婚相手と自分は「相手の幸せを自分の幸せだと思うことで、お互いに幸福だと思える範囲が広がる」という意味でwin-winの関係とさえ言える。

しかしながら、子どもを生むことは親の目線から見れば「親の幸福の範囲を広げる」が、一方で子どもにとって「生まれることが幸せかどうか」を知ることはできない。それどころか、生まれたことによって受けることもなかった不幸を被るかもしれない。

他の人間関係とは異なるこの非対称・不平等さこそが、「反出生主義」が倫理的問題と指摘する点である。

 

自分に降りかかる不幸を「他人のせいにできないまじめさ」を持ち、

「自分の存在のせいにしかできなくなる程に価値観のよりどころが少ない」人なら、「生まれてこなければ」「私は苦しまず」「親も苦しまなくて済んだのに」と考え至るのも自然に思う。

 

根底にあるのは「子どもを人として扱うこと」

提訴を受けた両親はサミュエルさんの考えを「誇りに思っている」としつつ、

「生まれる前の息子からどうやって同意を得られたのか合理的な説明ができるなら、誤りを認める」と述べている。

 

「倫理的問題があるから子どもを作るのをやめるべき」と即断せず、

サミュエルさんの指摘を前向きにとらえ、クリアした上で子どもを設けることを考えたい。

 

不平等の原因は「出生において子どもと親に約束ができないこと」である。

生まれる前に約束をするのは原理的に不可能なので、出来ることは「こどもがうまれたことを、出生後に承認できるように考え方や環境を整える」ことのみに限られる。

普通の人間関係でも、相手と場合によっては事後承認でも許されるだろうから、出生でも同様に考えるのである。

ただし事後承認である以上、相応の正当性が求められる。

 

 

こどもの出生にある不平等感を指摘し、人間関係の例外にならないようにギャップを緩和したいと考える「反出生主義」からは「子どもを一人の人間として対等に扱いたい」という強いを感じる。

 

子どもを「権利の主体」であることを強調した「児童の権利に関する条約」とマインドを同じくしているように思う。

www.mofa.go.jp

 

条文には、親が果たすべき義務・責任として次のように述べられている。正当性のある約束を結ぶにあたって守るべきことの指標となろう。

 

第3条

2 締約国は、児童の父母、法定保護者又は児童について法的に責任を有する他の者の権利及び義務を考慮に入れて、児童の福祉に必要な保護及び養護を確保することを約束し、このため、すべての適当な立法上及び行政上の措置をとる。
 

 

第27条

2 父母又は児童について責任を有する他の者は、自己の能力及び資力の範囲内で、児童の発達に必要な生活条件を確保することについての第一義的な責任を有する。

 

子どもは親に感謝するのが当たり前」という道徳的・社会的通念があるのは、

ほとんどの親が条文に書かれたことを当たり前に受け止め、子どもの幸せを願った結果「親に感謝する気持ちが当たり前に湧いてくる子ども」が大部分になったことの証拠だと思う。

 

もしも自分がその立場になった時、子どもを苦しめないために自分が振り返る場所にしたいと思う。

 

25日目 「森」を見て「木」を見ず 2

 細かいところに目を配りすぎるあまり本質や全体像を見失うことを「木を見て森を見ず」といい、

俯瞰しすぎて個の特徴をないがしろにすることを指して「森を見て木を見ず」という。

ここまでは以前ブログに投稿したおはなしである。 

crowingspear.hatenablog.com

 

f:id:crowingspear:20190926123018j:image

 

同じ「木」をテーマとした四字熟語に「枝葉末節(しようまっせつ)」がある。

意味は「主要でない細かい部分」「本質から外れた些末(さまつ)なこと」。

また「枝葉末節にとらわれる」と言えば、「些細なことに気を取られて本質を見失う」ことを指すそうだ。「木を見て森を見ず」とほとんど同義である。

「森全体に対する一本の木」「木全体に対して、一本の些細な枝」というふうに、階層構造の違う部分をそれぞれ比べたのに、似た意味になっているところがおもしろい。

 

遠くから一本の木を視界に捉えたとき、まず目がいくのは外身を飾る枝葉の部分。木と触れ合うほど近づかないとその本質は見えない。森全体を俯瞰して眺てみても、幹は目に入らず、なおさら枝葉しか見えないものである。

それでも森は美しいのはなぜか。枝葉で飾られているからこそである。私たちが森を見るとき、木の幹なんて見ない。枝葉を見て楽しんでいる。森全体を見れば、枝葉も些細なことでないように思えてくる。

 

人が集まって作る社会はさながら森のようである。自分が大事にしていることなど周りからはつゆほども気にかけてもらえない。始めはどうでもよかったことが人を魅きつけ、重宝される。そして、そのどうでもいいことが集まって社会が彩られている。

 

紅葉の季節が近い。

 

 

 

 

24日目 おしながき

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Pmanです。

 

noteを始めて、人からの反応が書くハードルをここまで下げるのか、と改めて実感している今日この頃です(機能上、noteはユーザー同士の閲覧が多い)

noteのいいところはこの人から教えてもらったので、導入を検討している人は是非読んでみてください↓

note.mu

 

僕は移動時間に書くことが多いので、スマホアプリの機能が良いはてなブログを主に使っている現状です。

 

現在、ストックしているまいにち投稿2019のネタは次の4つです。(書き終わっているとは言ってない)

 

  • 悪口の書きかた(仮)
  • 森を見る人は枝葉を見ている

 

まいにち投稿をはじめてから、こんな感じの話のタネが日に2〜3個くらい頭に飛び込んでくるようになりました。

以前は頭に浮かびこそすれ、ネタを消化しきれずに頭に残り続けていました。1ヶ月の間に3つくらいのテーマを入れ替わり立ち替わり考え、やっと一つ形になるという具合。

 

ダメダメでも記事という形にして外に出することで、空いた頭のメモリを使って新しいことを考えられるようになったんじゃないかなと思ってます。(個人の感想です)

23日目 具体的に話せない

「人が言う「具体的」ってなんなんだろ。

問題から学んだことを抽象化してひとつ理論めいたものを作って、それを説明するために仮想の具体例を挙げるんだけど、それが具体的じゃないって言われるんだよね。」

 

 

 

 

 

「どういうこと?具体的に説明して」

 

 

ー糸冬ー

22日目 noteはじめました。Pman(ぴーまん)です。

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noteを始めたので、あらためて自己紹介をば。

note.mu

 

このブログでは自分が日常で気づいたことに関してあれこれ思索したことを書いています。
たまに遊戯王など趣味の記事も書きます。

ブログ名の由来は「コロンブス(Columbus)の卵」ということわざから来ています。

「言われてみれば当たり前だが、言われなかったら一生知らないままであること」という意味です。

「僕が思っていること・知っていること」を発信することで、世界の誰かが「コロンブスの卵」的な気づきを得て、思考したり興味を広げられるきっかけになればいいなと思っています。

 

僕は、「人間はそれぞれ違う世界が見えていて、70億全員が別々の言葉を使っている」と思っています。

 

数学を修めた人なら数学の作法で世界をみて数学という言葉で研究成果を世に出すわけです。


しかしながら、数学という限られた畑にいる人ですら世界の認識にズレがありますし、自ずと出てくる言葉も違います。

数学者同士でも意見がぶつかりますし、一つの問題解決にいくつものアプローチがあるのが世界観の違う証拠ですよね。

 

「世界観・言葉が違うから全ては分かり合えない」と思うと同時に、「共感できる部分」があることにワクワク・楽しさがあると僕は思っています。 

だからこそ、「人が自分の色眼鏡で見て、自分の表現方法で世界に発信したもの」が好きですし、芸術作品・研究成果・職人が磨いた技術という創作物を尊敬しています。もちろんブログも。

 

そう思っていたからこそ、「創作活動でもっとも大事なこと」に共感してnoteを始めたんだと思います。

note.pieceofcake.help

閑話休題
新聞のコラム「Column」程度で、Pが入っているのは自分のハンドルネームがPman、というのもブログの名前の由来です。

・アニメのプリティーシリーズ(Pretty Series)
・ゲームのパワプロクンポケット(Pawapurokun Pocket)
・ロックバンドのポルノグラフィティ(Pornograffitti)
が好きなのがPmanの由来のひとつだったりもします。

 

noteに投稿する記事はこちらの気に入った記事で、全文公開するのでこちらはとくに変わりはないと思います。

 

これからもよろしくおねがいします。 

21日目 オレンジの語源

オレンジの語源をたどっていくと、インドの南部に昔からいる民族の言葉で「香り高い」を意味する「naru」に行き着く。

まず、この言葉が伝わるうちにスペイン語で「naranja」に変化した。

 

さらに果実の色から「黄金の」を意味する接頭語auが前に着くことにより「auranja」になり、音に文字が引かれて「orange」にたどり着いたそうだ。

 

彼がオレンジジュースが好きなのも頷ける。f:id:crowingspear:20190922030257j:image