【12日目 】目には目を、歯には歯を
「目には目を、歯には歯を」
どこかで耳にしたことがあるかもしれない。ざっくりいうと「目をつぶした者の目を罰としてつぶすべし」的な「報復の原則」を謳った文である。ご存知の方には不要な説明であるが、これは聖書に記述された言葉である。
イエス・キリストが生誕したころから復活までをつづった新約聖書内の「マタイによる福音書」の5章38節に、イエスが言った内容として確かにこう書かれている。
『目には目を、歯には歯を』
このことからわかるように、報復の原則を唱えだした人はイエスだったのである。
本当だろうか?
私たちが「報復の原則を唱えだしたのはイエス」と判断した根拠は聖書に書かれていた記述と『ざっくりいうと「目をつぶした者の目を罰としてつぶすべし」的な「報復の原則」を謳った文である。』とした前提知識からだった。しかしながら、ここにある知識を足すと「報復の原則を唱えたのはイエス」という言説が誤りを含むことがわかる。
「マタイによる福音書」の5章38節をもう少しちゃんと見てみよう。
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
これを読むと『目には目を、歯には歯を』といったのはイエスが最初ではないことがわかる。確かにイエスは『目には目を、歯には歯を』といったが、「報復の原則を唱えだしたのはイエス」という言説ははっきり間違いであることもわから。
『目には目を、歯には歯を』というのは旧約聖書内の、主がモーセという男に対して与えた定めについて記した出エジプト記の21章の22~25節にこう書かれている。
21 しかし、彼がもし一日か、ふつか生き延びるならば、その人は罰せられない。奴隷は彼の財産だからである。
22 もし人が互に争って、身ごもった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくとも、彼は必ずその女の夫の求める罰金を課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなければならない。
23 しかし、ほかの害がある時は、命には命、
24 目には目、歯には歯、手には手、足には足、
25 焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。
26 もし人が自分の男奴隷の片目、または女奴隷の片目を撃ち、これをつぶすならば、その目のためにこれを自由の身として去らせなければならない。
27 また、もしその男奴隷の一本の歯、またはその女奴隷の一本の歯を撃ち落すならば、その歯のためにこれを自由の身として去らせなければならない。
28 もし牛が男または女を突いて殺すならば、その牛は必ず石で撃ち殺されなければならない。その肉は食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は罪がない。
新約聖書より前に書かれた旧約聖書にはっきりと書かれている。報復の原則とは「犯した者は同等の報いを受けるが、それ以上の刑を与えられない。」という「罪人が償いをする範囲」を記したものであるのがここからわかる。
ここから判断すると「マタイによる福音書」の5章38節ではイエスが『目には目を、歯には歯を』と言ったのは『モーセが主に与えられた定め』について述べるためであった。確かに「報復の原則を唱えたのはイエス」だが、「報復の原則を唱えだしたのはイエス」というのは誤りだと即座にわかる。
前提知識の少ない人は、事実をもとにした誤った言説を否定する力を持てない。水素分子は確かに還元作用を持つが、水素はほとんど水に溶けないことを知らなければ水素水が還元作用を持つことを否定できないのと同じである。知識自体は辞書や信頼のあるウェブサイトで調べることができるので、騙されないためには「不足している知識がないか」疑い、疑いをもとに知識を得ることが大事である。
これでもう騙されない!と自信を持てたなら、「マタイによる福音書」の5章38節に加えて39節を読んでみることをお勧めする。
38
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
39
しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
イエスが『目には目を、歯には歯を』といったのは「報復の原則を唱えるため」でもなく、「復讐してはならない」ことを伝えるためだった、というのが聖書に書かれた事実であった。筆者が38節だけを引用せず、39節を読めばすぐに分かったことである。
騙されないためには、知識を得ること以外にも、どの部分を抜き出したかに気付くことも必要らしい。