【まい投2020-40日目】孤独の時間
孤独は人を成長させるという。
孤独でない間、人は常に顕在意識を働かせつづける。
視界内の存在をとらえ、感じたことを言語化・数値化してアウトプットする。
外界の変化に気づきやすい・臨機応変に動ける等の特徴があり、コミュニケーションに向く脳の使い方だ。
「脳は左右で分かれていて、それぞれ論理と直観を司っている」と言われて久しいので詳しくは触れないが、有り体に言えば「孤独でない時間」とは、右脳と左脳がリンクして事に当たっている時間だ。
逆に、「孤独な時間」は右脳と左脳の情報の行き来が制限された状態である。
「寝ている間」や「坐禅を組んで瞑想しているとき」が「孤独の時間」の脳をイメージしやすい。
寝ている間人はその日のできごとを無意識のうちに整理している。そして瞑想は「考えようと意識すること」をやめ、潜在意識を卓越させることだ。
この間、右脳は右脳で、左脳は左脳でものを考えるので、孤独でない時間にインプットしたまま散らばった情報を組み合わせ、自分自身の哲学を構築することができる。腑に落ちた、地続きの理解が可能になる。
孤独の時間こそが、経験したことを自分の内に積み上げてくれるのである。
好奇心みたいな欲に囚われつづけるあいだ、人は外界の刺激に晒されつづける。顕在意識がはたらきつづけるせいで、潜在意識のうちで考えを深化したり、哲学の構成ができなくなる。
昨日の記事内のTwitterの例は、ひとりの時間でありながら、バリバリ顕在意識の時間である。その意味では孤独の時間ではない。
Twitterを開いて通知を確認したあと、タイムラインの1ツイートに目が行く。次のツイート、次のツイートに目が移り、いつの間にか数時間が経過してまう。 無限に流れてくるツイートは、距離を取り去るのに事欠かない。「へえ、こんなこと言ってるのね」「このイラストいいね」・・・と無限に目移りしていく。 無限に目移りできる場所は、好奇心にとって最高の場所だ。欲を無限に満たせるからである。またそのような環境で欲は、人を興奮させ、容易に制御不能にする。 それを制御できるのはさらに大きな衝動か、さらに大きな苦しみしかない。 そうして好奇心は、「わたし」が疲労で擦り切れるか、もっとやりたいことが現れるまでタイムラインに私を囚えつづける。 その意味で、Twitterは行き場の失った好奇心の墓場になる。
【まい投2020-39日目】無限の好奇心 - ColumPus
ひとりの時間が好きな人は多いが、「孤独な時間」を過ごしている人がどれくらいいるのか気になる。
【まい投2020-39日目】無限の好奇心
好奇心はものごとを知りたいという欲求として知られている。
知ることは、自分の外界にあるものに着目して、自分の中に観念をつくる行為だ。
好奇心を語った格言に「人はうまれながらにして知ることを欲する」というものがあるが、原文の「知る」にあたる単語は「見る」という意味である。
「見る」にも入りいろな意味があるが、遠景にあるものにピントを合わせる場合の「見る」がここでの意味に近い。
その意味での「見る」ことは、視界にとらえたものとの「距離をなくす」ことである。
私たちは、視界にあるたくさんのオブジェクトにかわるがわるピントを合わせ続けている。そのつど「あれは何だろう・・・。あ、バケツか。」「花が動いたな、虫が止まっているのか」などと考えて遠くにあるオブジェクトに気を取られ、逆に手元にあるものを見落としている。
その意味で、ピントを合わせている場所が自分に一番近い。ピントを合わせに行く「見る」という行為自体が「距離をなくすこと」と言えるのである。
欲は何かを得ることではなく、求めることに本質があると30日目の記事で言った。
そこから、「無限に目移りし」「求められる限り求め続ける」性質が見えてきた。
crowingspear.hatenablog.com
以上のことをまとめると、見る欲求である好奇心は、「距離をなくしたい欲」ということになる。
視界にとらえた物体Aにピントを合わせ、「バケツか」という一定の理解をしたところでAにこれ以上近づけなくなると、もはやAから欲を満たせなくなって、急激に興味を失う。そして次に焦点にとらえた物体Bに強くひきつけられる。
そうしてA→B→C・・・と目移りする。目移りは、Aがつまんないから仕方なしに、ではなく「距離を取り去りたい欲から来る衝動が視界に入ったものにとにかく向かわせる」イメージのほうが近い。
好奇心に囚われる限り、これを無限に繰り返すのである。
「欲」の記事でもふれたが、好奇心は欲である以上、原動力になりうる。
目移りするときのエネルギーはそれほどまでに強い。欲の中でも、特に好奇心が人類の叡智を拓げてきたことも否めない。
実際、視野が狭くなりがちな人にとって、好奇心は新たな発見の糸口にもなろう。
しかしひとたび囚われると、目的を達しても自分には「満たされなくなった無限の好奇心」が残る。
Twitterを開いて通知を確認したあと、タイムラインの1ツイートに目が行く。次のツイート、次のツイートに目が移り、いつの間にか数時間が経過してまう。
無限に流れてくるツイートは、距離を取り去るのに事欠かない。「へえ、こんなこと言ってるのね」「このイラストいいね」・・・と無限に目移りしていく。
無限に目移りできる場所は、好奇心にとって最高の場所だ。欲を無限に満たせるからである。またそのような環境で欲は、人を興奮させ、容易に制御不能にする。
それを制御できるのはさらに大きな衝動か、さらに大きな苦しみしかない。
そうして好奇心は、「わたし」が疲労で擦り切れるか、もっとやりたいことが現れるまでタイムラインに私を囚えつづける。
その意味で、Twitterは行き場の失った好奇心の墓場になる。
【まい投2020-38日目】摩擦
地べたにスリーブから出した消しゴムを置き、消しゴムを横方向にゆっくり押し、だんだん強めていくとする。
加えた力と同じだけの摩擦力が消しゴムに加わっている間は、消しゴムは動かない。ある力の強さになると釣り合いが破れて消しゴムは動き出す。
動いたあと、逆に加える力を弱くしていくと、より小さくなっても消しゴムは止まらない。
言い直せば、消しゴムが動き出すのにの力が必要だが、消しゴムが動き出したらそんなに力はいらなくなるのである。
山頂の近くだけ丸く削れた「カール」という地形ができるのは、山の上の氷河が滑り落ちる際、滑り出すまでが一番摩擦がかかっているせいである。
成果が形になるまではけっこうしんどい思いをするが、動き出したらそんなに気にならなくなるのは、摩擦力のかかり方にけっこう似ている気がする。
【まい投2020-37日目】【デッキ紹介】RR-ワイルド・ヴァルチャー2.0
9期のインフェルニティガンとして悪名高い 「RR-ワイルド・ヴァルチャー」というカードでデッキを組み始めて4年(くらい)経ちました。
「ファントム・レイジ」でRR・幻影騎士団が強化され、このカードにも日の目が当たった(当社比)ので、このほどデッキを更新しました。
今回は強化された【ワイルド・ヴァルチャー】をお目にかけたく、記事に書くことにしました。
デッキレシピ
詳細はこちら
結局、新規RRは2種類採用に落ち着きました。
「RR-ワイルド・ヴァルチャー」で出す先であるレベル3RRでありながら、特殊召喚効果を持って初動にも貢献できる柔軟さ。さよならスカルイーグル。
以前はP召喚を使って「RR-アーセナル・ファルコン」を出す動きを初動に使っていましたが、今回から不採用に。
「ファントム・レイジ」で登場したRR・幻影騎士団強化により、「RR-アーセナル・ファルコン」を出すだけなら「RR-ワイルド・ヴァルチャー」を使うより簡単に実現できる方法が生まれてしまったので、初動から「RR-ワイルド・ヴァルチャー」を使う必要性がなくなりました。
【デッキ紹介】RR-ワイルド・ヴァルチャー【 #鳥オフ 】 - ColumPus
※こちらは過去のレシピです
ワイルドヴァルチャーがなにをするの?
シムルグ+ディアボロスループ
「ダークネス・シムルグ」「闇黒の魔王ディアボロス」はそれぞれ似た条件で自身を特殊召喚する効果をもつモンスターですが、『闇をリリースして闇をアドバンス召喚』しても、同時に特殊召喚はできません。
1枚でこれを実現するには、『闇属性で・アドバンス召喚できて・自身をリリースできる効果を持つ』必要があります。
能動的にこれを行える☆5・☆6は「暗黒の召喚神」「サイコ・ギガサイバー」「ティンダングル・ベース・ガードナー」「RR-ワイルド・ヴァルチャー」のみです。*1
その中でも「RR-ワイルド・ヴァルチャー」には、「RR-ネスト」で回収すればターンを跨いでループできるという""""唯一性""""があります。
1ターン周期のこのループを主軸にしたのがこのデッキです。
具体的な動きはこちら
- 「RR-ワイルド・ヴァルチャー」をアドバンス召喚
- 「ダークネス・シムルグ」を自身の効果で特殊召喚
- 「RR-ワイルド・ヴァルチャー」をリリースし「RR-ヒール・イーグル」2体を特殊召喚
- 「闇黒の魔王 ディアボロス」を自身の効果で特殊召喚
- RRが2体いるので「RR-ネスト」で「RR-ワイルド・ヴァルチャー」を手札に戻す
結果「ディアボロス・シムルグ・レベル3×2体が毎ターン出てくる」
こちらの動きは以前の記事でも紹介しました。
ランク3連打・ランク8連打が可能に
結果「毎ターンレベル3とレベル8が2体並ぶ状況」を作れます。
出てくるレベル8が強いので、そのままエクシーズする旨みはそんなにないですが
みたいなことをすればループ内容が
「ディアボロス・シムルグ・リバリアン・タイタニックが複数回出てくる」
に変化します。
理想ムーブ
序盤-ループ完成
- 「RR-ヒール・イーグル」
- 「闇黒の魔王ディアボロス」
- 「ダークネス・シムルグ」
を墓地or手札に揃える必要があります。
このデッキでは次の2ステップを踏むのを理想としています。
1.「ワイズ」+「フォース」
「闇黒の魔王ディアボロス」は他のコンボパーツよりアクセスが難しいので、汎用の墓地送り札に頼ります。
「RR-ワイズ・ストリクス」の②でサーチ可能な「RUM-ソウル・シェイブ・フォース」から「永遠の淑女ベアトリーチェ」を出せるので、これで達成可能です。
これを達成してくれる主な初手は次の2パターンです。
さらに条件が良ければこの間に「RR-ネスト」が手札に加わり、ループに向かえます。
2.「シムルグ」+「フェニックス」
1.の状態に適当なモンスター1体が加われば「王神鳥シムルグ」と「トロイメア・フェニックス」を相互リンク(=戦闘破壊されない)状態で出せます。
自身の耐性と合わせれば「戦闘・効果で破壊されず効果対象にならない」になるので、返しのターンまで生き残ってくれることでしょう(希望的観測)。
最初のターン終了時に「ダークネス・シムルグ」を、相手ターン終了時に「RR-ヒール・イーグル」を出せば、ループ完成に大きく近づきます。
後は「RR-トリビュート・レイニアス」「RR-ワイルド・ヴァルチャー」「RR-ネスト」や他汎用札の引き具合に頼ります。
ループ成立後
ループが完成したら、「闇黒の魔王ディアボロス」のハンデス、「ダークネス・シムルグ」の魔法罠無効・各種No.Xで制圧します。
ディアボロス+シムルグのループを途切れさせないために、モンスターが1体は場に残る立ち回りを意識できればなお良しです。
「RUM-ソウル・シェイブ・フォース」でライフがデフォルトで4000未満になっているので、突然死しないように注意します。
その他のカード
「ジェネレーション・フォース」
初動からループ完成後までXモンスターがいないことはないので、ほぼいつでも使えるカードです。
「エクシーズ・スライドルフィン」・「エクシーズ・リボーン」をサーチできます。
「エクシーズ・リボーン」は、「永遠の淑女ベアトリーチェ」「No.71リバリアン・シャーク」が蘇生先の筆頭候補です。
「RR-デビル・イーグル」のバーンで引導を渡しにいくこともできます。
「ダーク・クリエイター」
場を空にされても動けるカードとして採用しています。
このカード1枚で
- 「RR-ワイルド・ヴァルチャー」蘇生して効果→レベル3×2体と「闇黒の魔王ディアボロス」自己蘇生
と動かせば、疑似ディアボロス+シムルグの動きができます。
採用を検討したカード
「レイダーズ・ナイト」「RR-エトランゼ・ファルコン」
初動が終わったら役目が少なくなるレベル4モンスターの利用手段です。
「RR-エトランゼ・ファルコン」はヴォルカザウルスのような効果を持ち、破壊された場合「RR-デビル・イーグル」を蘇生できることから、打点3000を超えると対処が難しいこのデッキの弱みを補ってくれるカードです。
「エクシーズ・スライドルフフィン」や「RR-ペイン・レイニアス」を素材に出せないので、実質「召喚僧サモン・プリースト」+魔法カードが終盤に要求される都合上見送りました。
「RUM-七皇の剣」
「No.71リバリアン・シャーク」のサーチ先です。
蘇生した時のメリットが大きく進化前がランク4の「CNo.101 S・H・Dark Knight」や、進化前がランク8の「CNo.107 超銀河眼の時空龍」が出す候補に入ります。エクストラデッキの都合上採用を見送りました。
エクストラが空いたら入るかも。
最後に-次のワイルド・ヴァルチャーデッキ
遊戯王ニューロンなどを見ても、「RR-ワイルド・ヴァルチャー」を活用したデッキをあまり見かけなかったのですが、このほどフォロワーさん(カイ(仮 (@kaiji1019) | Twitter)が組んだとのツイートを拝見し、陰ながら大変うれしく思っていました。
ご自身がデッキ紹介ブログを書くにあたり、僕の記事を引用したいとのことだったので、せっかくなら今の構築のほうが引用しやすいかなと思い記事を書くに至りました。
明日以降に記事が上がるそうなので、ぜひお楽しみに!
*1:2020年9月12日現在
【まい投2020-36日目?】
寝落ちしました。
【まい投2020-35日目】バチはもう当たってる
悪事を働いた者が報いを受けることを「バチがあたる」という。
「バチを当てている」のは神様や仏様のような存在だ。鉛筆を粗末にすると「鉛筆の神様が〜」と言われたりする。
ただ、「悪事をはたらかれた者自身が罰を与えに来る」というイメージは無い。せいぜい化てて出てくるくらいだ。
また「バチ」と「悪事」の因果関係は、有ってもいいが、なくても「バチ」として成立する。
ゴミを捨てたら全然関係ない場所の石に躓いてしまって「ホラ、バチが当たった」と言ってしまえるほどだ。
目の前にある存在が報いを受けさせるわけでもなく、悪事とに因果関係が不要となれば、それを結びつけるものは論理でなく人である。
悪事を悪事と認識するには、それに対する「後ろめたさ」が要る。
悪事が「後ろめたいこと」と思っていたところに不運が降りかかったとする。「後ろめたさ」が悪事と、因果関係のない不運とを結びつけてしまい、「バチ」が成立する。
悪事を働いた時点で、その後どんな不運がふりかかろうと、それが悪事の報いかのように思えてしまうのだ。
つまり、後ろめたさを感じた瞬間、「バチ」が当たりはじめている。その意味で、悪事自体がバチのはじまりののである。
この考えが僕の中に根付いてしまっていて、悪事をする人に「報いを受けてほしい」とかは思わない。すでに報いを受けはじめているからだ。「後ろめたさ」にずっと追っかけられて生きていく点を見れば、むしろかわいそうに思える。
それはそれとしてムカつくので、1発デコピンさせてほしい。
【まい投2020-34日目】囚われているのは「誰」?
「囚われる」という言葉は、本来は「捕われる」と同じ意味である。囚人(しゅうじん)をイメージすると分かりやすい。
文字の形を見ればわかるように、箱の中に人が閉じ込められている感じである。「縄で縛って捕まえられる」というよりは「牢屋にぶち込む」イメージのほうが近い。
もう一つ、「固定した価値観や考え方などに拘束される」という意味もある。
概念的な意味は、往々にして実際の動きを喩えたものである。
「考え方に囚われること」は、「誰かから牢屋みたいなところに入れられて出られなくなるイメージ」なのである。
「囚われる」という言葉は、「囚う」という言葉の受身形なので、当然だが囚えている側と囚われている側両方が存在する。わかりやすいところでは、他人の意見に囚われる場合、囚われているのは「自分」だ。
では自分の中の価値観に囚われる場合、「誰が」囚われているのだろうか。
「お金がありさえすれば幸せ」という偏見に囚われている場合、囚える側も囚われる側も自分の内側に存在している。
「自分に自分が囚われている」と言ってしまえばそれまでだが、もう少し解像度を上げて考えれば囚われの身から解放されるときの手引きになるかもしれない。
囚われている側はその間、「本来いるべき場所にいないこと」が示唆されており、逆に囚えている側が「本来いるべき場所に」代わりに存在している。
偏見の例で言えば、囚える側は「偏見」である。偏見が本来いるべき場所を陣取っていることになる。その場所とは「考えたり判断する立場」のことであることもなんとなくわかる。
23日目・26日目の記事で「主観・判断を明け渡す」「憑依される」と呼んでいたものが、この「囚われる」「囚える」の話につなげられると思う。
自分のいない理解
一方、外から得た知識+外から得た知識での理解は、経験を根としていない。外の世界でどれほど理論づけられた語りであっても、ただ聞いただけでは根源的な理解ができない。その語りを経験した時と場所に自分がいないからである。結局は、「宙に浮いた理解」である。「自分のいない理解」「納得のない」理解とも呼んでいた。
気に入った表現なので何度でも引用するが、つまりこれである。
「生壁色をもう少し暗く黄色くした色が根岸色です」と言われて、「ほーん、わかったわ」とはならない。「自分がみたこともない色」は理解につながらないのである。色を理解すること-ColumPus
こちらは、自分の外で知識同士が繋がれていて、そのつながりをまるまる頭に入れるものである。その意味で、知識を繋げる判断を自分以外の何かに明け渡している。言い換えれば、自己は他の者に憑依されているのである。
【まい投2020-26日目】デッキ構築は対戦から - ColumPus
思うに、主観とは望遠鏡のある場所のようなものだ。
「偏見くん」に望遠鏡をとられてしまったら「わたし」は外の景色を見ることができない。本来ならば「わたしがそこにいるはず」なのに、「偏見くん」がそこにいるせいで「わたし」は望遠鏡のないとことに追いやられる。このとき「わたし」は望遠鏡を「偏見」に明け渡してしまっているのである。
その間、「偏見くん」が見た景色を聞くことでしか、「わたし」が外の景色をうかがい知ることはできない。判断の基準も「偏見くん」のフィルターを通してしか行えない。このとき「偏見くん」が判断基準に憑依する。
我々は誰かが考えた「言語」や「法則」を使わないとものを考えられない。知らず知らずのうちに、自分では経験していない価値観や常識を「正しいと仮定して」「それに乗っかって」ものを考えて判断している。「偏見」も「正しいと仮定されて乗っかられるもの」のひとつに過ぎない。偏見と常識はこの意味で同じグループにいる。
知らず知らずのうちに「わたし」たちは「囚われて」いる。囚われることは人の本質に属している、と言ってもいい。
だからといって「何ものにも囚われないようにせよ」と言いたいのではない。そもそも「囚われ」は人の本質なので、それ自体が悪とは自分以外の誰も断定できない。
囚われている「わたし」が本来どこにいて、囚える側がいつそこに陣取ってくるかを知ると、『「わたし」と「囚われている自分」の区別がつかず、わけもわからず「わたし」が苦しむ』ことは減るんじゃないかと思う。
具体的には『「好奇心」で色んなことを調べるのに躍起になっている人』が当てはまるかもしれない。好奇心に囚われた結果、あれもこれも知っているけれども、どれも極められない自分に「こんなはずじゃなかった」と違和感を覚えてしまうような状況である。
自分の価値観は分離不可能ではないか、という疑問が浮かぶかもしれない。
確かに価値観は「自分」に含まれているが、ここでは囚われる側の「わたし」・囚える側「価値観」の間の区別を考えている。
自分とは「価値観」や「わたし」を内に包む場所だとイメージすればわかりやすい。
価値観は自分の内側にあるけれども、自分という「プラネタリウムのドーム内」にいる「わたし」もまた内側にいる。
「囚われ度0%」みたいな状況を考えるれば『自分はその価値観を含むけれども「わたし」は囚われていない』ことも可能とわかる。
【まい投2020-16日目】プラネタリウム 内から見るか、外から見るか - ColumPus
『「わたし」を偏見や価値観が囚える』という「ドーム内の現象」はたほう、その価値観と「わたし」が別物だと認識可能なことの証明にもなる。