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ColumbusのたまごColumnブログ

【まい投2020-66日目】あなたの解釈ですよね?

論理のしっかりした学問分野として馴染み深い数学は、「定理」がたくさん集まって成立している。数学が成立するまでの手続きはおおよそこうだ。

言葉を「定義」し、「公理」を正しいと信じた上で、定義と公理だけをつかって証明できる事柄を「定理」と呼ぶ。

次に第2の定理を証明していく際「最初に証明された定理」+定義+公理で証明する。

第3・第4の定理も同様にして「定理の数々」+「定義」+「公理」で証明していく。

「定理」の証明には根本的には「定義」と「公理」しか使わないため、正しく証明しさえすれば、「その定義と公理のもとでは」絶対に正しいものになる。

逆に言えば、定義や公理が破綻していたら体系自体がちぐはぐになってしまう。そうならないために、定義をしっかり決め、公理は「疑いようのないこと」に絞る必要がある。

小学校や中学校で習った平面図形という体系の公理には「点Aと点Bを通る直線が少なくとも一つ存在する」というものがあり、確かに証明はできないけど疑いようもなく正しそうである。

 

 

一方でかなり意地悪な言い方をすれば【数学は、数学者たちが決めた定義・公理でスタートしている】から、「別の定義・公理でスタートした論理体系から見ればひとつの解釈に過ぎない」と言ってしまえる。特に公理は「正しいして疑いようのないこと」なので、ブレる余地がある。「あなたの解釈ですよね?」を数学にぶつけるという勇者である。

 おそらくこれが「人によって物理法則は違う」の言わんとするところである。

 

crowingspear.hatenablog.com

 

そりゃ人によって言葉の定義や「絶対に正しい」と思う基準が違うから導かれる定理=世界観も変わるのはわかる。ただ数学みたいな客観の総体を相手にすると事情が違う。

たとえブレる余地のある定義公理といえど、数多の数学者の叡智なのでかなり強固である。深い理解はしていないが、主観でブレるところも織り込み済みなはずである。

個人の論理体系(以下ざっくりと個人の哲学とでも言ってしまうが)は各々違うとはいえ、数学に並んだり上回る体系を持っている、と言ってしまえる胆力は僕にはない。

 

個人の哲学同士を比べたときに「あなたの解釈ですよね?」は現代ではわりと成立する文言ではある。それには個人個人の哲学同士が「同列の価値を持つ場合」という前提がないと、その比重を見誤ってしまいそうだ。

 

 

 

【まい投2020-64日目】人間の味方は人間

人が裸一貫で未開の地に放たれたら、彼は法律から縛られることがない。他の者を殺しても咎める者はいないし、盗みも姦淫もしようと思えばし放題である。彼を縛り付けているものは自分の能力の限界、もっと広く言えば物理法則だけだ。

いいことばかりでもない。命を狩り、外敵を排除しなければ生きていけない。病気や怪我をした時、一気に食料危機に瀕する。

 

もう一人が野に放たれて、その人と協力して生きるようとするなら、二人になったことで生存できる確率が上がる。食べ物の供給も安定するし、一人が病気になっても養生できる。

一方で、協力関係を結んだ段階で自分は「相手を害する権利」を失っていることになる。

互いに取り決めをして権利に制限をかける代わりに生きる確率を上げているのである。

 

人との関係がムラになるとこの取り決めが「掟」になり、国になった時に「法」になる。それにつれ、個人の生命維持は確実になっていく。一人一人のできることに制限をかけるかわりに、死なない安心を得ているのである。この取り決めに守られている限り、人間の一番の味方は人間だ。もっと言えば、人間に一番益をもたらすのは人間と言うことになる。

 

いままで隆盛してきた学問も、生きながらえてきたものは根底に「人間のため」という前提がある。人間が生存しない方向に向かう哲学をもつ学問があったとしても、その哲学ゆえに主流にはなれず、掛け算で減っていく。

その意味で、法律も学問も、その適不適や善し悪しの程度は変わるのかもしれないが、人間にとってその存在意義自体が失われることはない。あえてそれをないがしろにしたり、「人間のエゴ」に絶望するなら、裸一貫で未開の地に戻ってみることをお勧めする。

【まい投2020-63日目】おふとんポテンシャル・トラップホール

ポテンシャルとは潜在的に持つ力を指すが、物理学では特にその空間にはたらく場の力から個物が受ける影響の大きさを表す量である。

私たちが下に落ちるのも、地球という大きな質量を持つ天体がつくる重力場のせいだ。

重い物体ほど強く重力を受けるように、場の力を強く受けるための「適性」もある。
故郷に帰ってきた人は近づくほど駆け出したくなる。だから故郷という物体の周りには引力がはたらく、と言ったのはアリストテレスである。それもその土地が故郷のである人が近づいてきたときに受ける引力なので、土地の周りの空間には場の力が働いている、と表現できる。


部屋の中にもこのような場の力は働いている。



寝つきが悪い朝、お布団から起きるのにエネルギーを要したり、一度起きたのに二度寝をしにお布団に戻ってしまうことがある。
私たちをお布団にひきつける向きに場の力が働いているのだ。

場の力によって引力が働く場合、そのポテンシャルは中心に近づくほど低い。
また中心のポテンシャルが低ければ低いほど強い力でひきつけられるし、抜け出すのが難しくなる。そして完全に抜け出せなくなった状態を「トラップされた」という。
お布団に捕らわれやすいのはやはり起きた直後だ。
「おふとん場」を重力場に喩えるなら、私たちは朝ほど重い(ひきつけられる適性が高い)のだ。

抜け出せなくなるほどの魔力を持ったお布団の周りには、落とし穴(Traphole)のようなポテンシャルが形成されている。
これをおふとんポテンシャル・トラップホールという。

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おふとんポテンシャル・トラップホール

お布団が私たちをひきつけるとき、私たちはお布団に落下しているのである。

【まい投2020-62日目】ゲームとの付き合い方についての覚書|ゲームはあの日の勉強だった

それでもゲームが趣味ですか?

ゲームが趣味です。
ゲームと言ってもソシャゲRPGとスマホTCGしか触っていない。もともと筐体は持っていないし、FPS、TPSも苦手だ。リアルTCGはやるが、出歩くことが減って最近買いそろえる機会がなくなった。そのほかを強いて挙げるなら、休日や体力のある平日に友だちと通話しながらamong usをやる程度だ。本当にゲームが趣味なのか?
ゼルダの伝説とかFFに新タイトルが出て、みんなと同じスタートラインから1週間くらい詰めに詰めてゲームをすることはもともとない。僕の中の偏見では、ゲームの王道はこっちなイメージがある。
ぼくのやるTCGとかソシャゲRPGというラインナップを見るに、持っている知識量にモノを言わせられる、敷居が高くて自由度も高い「恒久的な」ゲームをやることが多いのかな。
運営からのアップデートに「お、新規出たんだ」といって胸を高鳴らせ、今の知識と照らし合わせながら「凶悪コンボみつけたwwwゲーム壊れるwww」とか言う。そして「新しい環境デッキ」と照らし合わせて、新規を自分の脳内プールに入れる。対戦で実現するまで持っていけるかは別の話。
多分これをやってる時が一番楽しい。新規来たらTLでわいわいやったり通話やLINEで緊急招集かける感じが僕にとってのゲームなのかもしれない。油断すると競技志向になったり「うまい」ゲーマーに擬態しようとしてしまうが、突き詰めるわけでもなく、結局はファンプレイヤーどまりだ。こんな付き合い方でも楽しんではいる。
誰も知らない中、SNSと隔絶された世界で手探りで道を切り開くよりも、誰かがすごさを知ってくれていることを前提とした「有識者気取り」がやりたいのかもしれない。これって趣味ですかね?

これって生徒時代の勉強との付き合い方では?

たくさんのビッグタイトル(教科)があって、一芸に秀でるもよし、手広くやって平均点にこだわるもよし。新規アップデートは毎週あって、フラゲをネタバレをして得意顔もできる。自分で学問書を借りてきて一晩没頭できる。ぼちぼちでも、やらなくてもまあ生きてはいける。(部活や習い事という、多くの中高生視点での)本業との比率を調整すれば、楽しむにも、惰性でやるにも付き合い方は無限通りある。ソシャゲと筐体ゲーの要素を一挙両得できるのが勉強だ。
付き合い方に自由が利くなかで、自分は結構勉強が好きだった。
授業で習った新しい知識を、その場で小手先の解釈を加えて「これってこういうことじゃない?」って友だちに披露するのがすきだった。素朴な物理公式を手に取って「これって宇宙の研究につながるんだぜ」などと言って曖昧きわまりない「ロマンが芽吹く前のつぼみ」を集めて、「ロマン」を手に入れたつもりになっていた。
思うに、純粋なフロンティアの探求よりも、誰かがすごいと言ってくれる前提の「有識者」でいることの方が好きだったのかもしれない。あれ?これって(以下略
それを「学問が好きで知的好奇心が強い」と勘違いできた結果、世界が広がって、幸せに存在できているとは思う。結局ファンプレイヤーどまりなんだけどね。やかましい。

今日はなんでこんな書き方なの

今日だけ書き方を変えてみた。購読している大好きなブログのスタイルである。
白黒(はぐろ)れむ様の「珈琲三杯|思索のための思索」というブログだ。
大好きなの理由は何個かあるが、その一つは全人類全方位に向けた「博愛」が感じられるからで、この記事はうなずきすぎて前転しました。
shirokuro-044.hatenablog.jp
僕の中ではこれが近いかな。恨み言に転化して真逆のこと言ってるみたいだけど、根底にあるのは全存在へのアガペーです。crowingspear.hatenablog.com

ふっかけたからには殴られる覚悟はできています

白黒れむ様の記事を読んでいつも思うのは、日常に思索が根付いている理由からか、硬い書き言葉のなかに(多分頭の中で一回音の情報にしていると思う)音としての言葉がリズムよく調和していて、生きた哲学を感じられることだ。
僕は読んだ本についての解釈をただ書き連ね、著者作者にビビりながら該当箇所を読みなおして投稿している。せっかく胃に入れた理解を口に戻して反芻している。だから書き言葉ばっかりの硬い文章になっているのかもしれない。
そこからの脱却「も」もくろんで、いきなり失礼してこんな引用をさせてもらった。
正直「お前誰?」って思われることを見越して、若干怯えながら書いてます。覚悟は・・・できてる。
shirokuro-044.hatenablog.jp

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【まい投2020-61日目】実在しない存在と自然

「自然」と聞いてまずイメージに浮かぶのは、流れる川、泰然と在り続ける海、そびえ立つ山、そして鳥やライオンなどの動物が生き生きとし、木々や美しい花などの植物が揺蕩う映像だ。

自然といえばかなり広範な意味をもつのだが、「人の手の入っていない、ありのままの姿」という自然の狭義の意味がコアにあるためにまず思い浮かぶ自然がこの映像となるのは不思議ではない。その対義語は人の手の加わったもの=「人工」である。

 

科学のなかでも自然を相手するセクションである「自然科学」の「自然」は、より広い意味だ。

狭義の自然は、実在するオブジェクト一個一個にフォーカスを置いている。

鳥やライオン・種々の木や草花は、取り出せば「生き物の一個体」という一個一個の実在だ。山や川や海は生物ではないが、切り取って一つのものとみなしているので一個の実在である。

 

これら自然の中にある存在が「ただ存在しているのでなく、何か原因があってそこに在るのでは?」と考える立場にいるのが「自然科学」だ。

もしかしたら科学という方法以外でもこのような信条があるかもしれない。とにかく、あくまでも自然を見る方法の一つが「自然科学」というだけのことだ。

 

自然の中に「山」という実在と「川」という実在があったとする。

「川が流れているのは山という高いところから水が落ちる力が原因だ」と考えたとするなら、

「山」という実在と「川」という実在のあいだに「原因」という実在のない存在が現れることになる。これは「重力」として知られているのだが、重力は一個の物としては目に見えない。

この原因という存在と「山」の間でも同じことを考えると、別の原因という存在が浮上してくる。自然内の実在「山」と「川」の間に存在するので、「原因」もまた自然の中のもの、ということになる。

 

自然科学の対象である広義の「自然」の範疇には、我々がイメージする自然の、「個物にフォーカスするということ」に加えて、実在する物同士をつなげる「原因」も含まれている。

この原因は自然法則とか言われることが多い。

人もこの中で生きる以上、その拘束を受ける。

だれも重力に逆らって生まで宇宙には飛び出さない。自然法則がそれを禁止している。

この原因を辿っていくと、人の手の加わっている範囲にも共通の原因が見出され、「自然」のカバーする範囲が広がる。

この程度広くなった自然は、「人工」のカバー範囲を全部含んでしまう。

その限りで、自然と人工が対立概念ではなくなる。

 

その昔、「神は自然である」と言った社会学者がいたが、聞き手が「狭義の自然」の話だと勘違いしてしまうと、神様とその辺に転がる実在が同列に扱われたと感じることになる。存在が全て目に見える個物だと思っていだ人は、(見えない神を信じているにもかかわらず!)神が俗におとしめられた、と怒ったそうである。

その社会学者がいいたかったのは「広義の自然」でのお話。根本原因たる神は実在を持たないが、存在はする。この区別ができていれば、同じ性質を持つ「原因」の数々の究極系を「神」と呼んだとしても何の違和感もないし、その権威が失われることもない。目に見えない神が「存在できる」のはむしろ、実在のない存在が認められるおかげなのである。

 

 

【まい投2020-60日目】書きたいのに書けない・・・?

まいにち投稿を続けてきて最近思うのは、アウトプットの出口が狭いとエネルギーが要ることだ。

日々のルーティーンが定まってきて、そこから除外した分の、書くための限られた時間や労力では、やめる決心をして、納得のいく記事をかいて・・・とする余裕がない。

本を読んでインプットはしているので、書きたいテーマがなくて苦しんでいるわけではないのだが、テーマによっては書くのに必要なリソースが日々の限界値を上回っていることが多くなってきた。

これが結構フラストレーションが溜まる。脱却できるアドバイスがあれば乞いたい。