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ColumbusのたまごColumnブログ

【まい投2020-74日目】好奇心と空気分子

空気中の気体分子は平均するとおよそ秒速500mの速さで運動している。とてつもない速さだが、目の前にある分子が1秒後に500m先に進んでいることはほとんどなく、1方向に進める長さは平均すると常温常圧で60nm(ナノメートル)しかない。秒速500mで60nm進んでは方向を変えていることになる。わたしたちの日常のスケールからすれば空気分子はその場にとどまっているも同然である。空気分子は0.1nmのスケールなので、空気分子のスケールから見れば100~1000倍くらいの移動していることにはなる

しかしながら、「空気が動いている」と感じる瞬間が日ごろある。風が吹いているときだ。普段その速さは1m/s、強めの台風で平均20m/sの風が吹いたりする。空気分子の平均速さには遠く及ばないけれども、20m/sの風というと立っていられないほどだ。ちなみに、地球上の観測史上の最大瞬間風速は93.4m/sである。
風は、空気分子が動いているというよりも、空気の塊が動いているといった方が正しい。風がないところで空気分子はほとんどがその場にとどまると言ったが、分子がとどまっている空間ごと20m/sで動いているのが風のイメージだ。風自体に実体はないので分子の移動距離と単純比較はできないが、わたしたちが見たスケールの1000倍どころか1000km単位で動く風もある。

ここからはただのたとえ話。
好奇心みたいな目先の欲求は、空気分子みたいな進み方をする、とつねづねイメージしている。
すごいスピードで動く代わりに、すぐに動きを変える。指向性がなくて、長い目で見ると結局はその場にとどまっている。好奇心で目に捉えたことを行動に移そうとすると、途端に退屈になる。好奇心で「ものごとを把握」するスピードに対して、実際に「経験したことを理解」するのはかなりゆっくりだからだ。
教科書のまだ習っていない範囲を見て教科書1冊わかった気になるのはすぐだが、実際に問題に当たって解けるようになるまでにはもっと時間がかかるのと同じだ。
【まい投2020-39日目】無限の好奇心 - ColumPus

上のたとえが適用できるなら、好奇心からくるナノメートル程度の「小さなスケールの動き」だけでは、わたしたちが「何か成し遂げたい」と欲するような長いスパンでの動きは見込めないことになる。

「これをやるぞ」とあらかじめ決めて実際に行動することで「風に対応する指向性のある流れ」をつくり、瞬間瞬間で好奇心を発揮するのがちょうどいいのかもしれない。

【まい投2020-72・73日目】センシティブがエロくなる

センシティブと言って成人向けコンテンツを指す例をよく目にする。英語の「Seinsitive」に「デリケートな」という対訳があるように、それ自体は「触れるのがはばかられる」という意味である。
多分きっかけはTwitterで画像が非表示になったときのアレだろう。

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センシティブのアレ

Twitterには「センシティブなメディアに関するポリシー」というものがあって、
help.twitter.com
この概要の中でTwitter社は5つの項目を「センシティブなメディアコンテンツ」としていて、実際成人向けコンテンツもそのなかに含まれている。成人向けコンテンツがその中でいちばん見かけられることが多いからもっぱらセンシティブと呼ばれる、というのはわかる

性的→センシティブのように、コアな意味をより広い意味の言葉で代用する例が身の回りには結構ある。
「批判」はいい点と悪い点を見分けて評価することという意味だが、もっぱら欠点を正す意味で使われる。
人間性に問題がある人は対人関係でのトラブルメーカーを指して言う言葉だし、そもそも問題という言葉はポジティブな意味にも使う。
少し汚いが「大便をする」は「トイレに行く」「お手洗いに行く」「化粧室に行く」「芥川を読む」「用を足す」「花を摘む」「雉撃ち」などなどもはやコアな意味が別のところに移ってしまっているものもある。

オブラートに包んだ言葉は投げかける側としては安心できる。相手を傷つけにくくなったり、広い意味の言葉ほど間違いになりにくいので謗られなくなる。
あるいはわざと曖昧にした言葉から同じ狭義の意味をつかみ取る仲間同士のコミュニケーションの心地よさを感じることもできる。「アレ」で通じる仲間内で盛り上がるアレである。

言葉を曖昧にする理由は頭をこねくり回せば結構出てくるが、わたしたちみんなが、図らずも曖昧な言葉に身をやつしているというのは正しそうだ。
ここから僕は、「曖昧さ」に、望まずとも使わされてしまうような引力をもった空間のようなイメージを持っている。
crowingspear.hatenablog.com
センシティブに性的という意味を持たせるとき、お布団に落ちるのと同じように、曖昧さという場に引き寄せられているように僕は思う。

【まい投2020-70日目】将来の夢

芸術家を養いたいという夢がある。

 

自然豊かな土地に真っ白な建物を立てて、広い芝生の庭と、視界が空だけになる屋上もつけたい。閉じこもって創作ができるように、防音室も完備したい。

家のどこで創作をしてもいいし、外泊も自由。食事も3食出そうと思う。

代わりに、作品を世界で2番目に見て、作者からこだわりを世界で最初に聞きたい。甘いお菓子とコーヒーを用意して、うんうん頷きながらでも。

 

興味のある芸術家の方、僕がお金持ちになったら連絡してください。

【まい投2020-69日目】なぜ〜すべきなんですか?

「すべき」「する必要がある」という言葉を安直に使ってしまう私たちは、それをなぜ「すべき」なのか知らない。

「なぜ勉強しなきゃいけないの?」という問いに対して、「将来の選択肢がたくさん持てるからだよ」「テストのためだよ」と答えるかぎり、その答えからは動作の主体が抜け落ちてしまっている。

勉強しなきゃいけないかどうかの判断では、勉強する側が秤を握っている。(それが妥当かの判断力が優れているかは横に置くとして)

 

だから「勉強しなきゃいけない理由」はまず勉強しなきゃいけない人に着せられるはずだ。
「なぜ勉強しなきゃいけないの?」という問いに答えるとすれば、第一義的には「あなたが勉強しなきゃいけないと思うから」である。
「勉強しなきゃいけないと思う理由」を説明するときに初めて、たとえば「将来的な〜」という具体的理由が判断材料として加わる。しかしそれも、あくまでも「〜を善だと思うから」という但し書きつきである。「将来的な〜」は人によっては望ましいことではあるが、望まれているかどうかはその人しか知らない。いきなり一般論から始めると、勉強するか決める側の善悪の判断が置き去りにされてしまうのである。

 

ベイビーステップでこの問いに答えていくとこうなる。

なぜ勉強しなければならないか?
それはわたしが勉強しないといけないと思うからです。
わたしが勉強しなきゃいけないと思う理由は、「将来の選択肢が増えること」が善だ、とわたしが思うからです。

 

どれだけ権威のある客観的事実だとしても、それについて生み出した観念が直接的な判断材料になるので、「なぜ〜すべきか」という問いは結局「〜だと私が思うからです」に行きつく。

地球温暖化」という既知の事柄を耳にしたとき、「憂うべきことだ」だとか「ウソだ」というイメージが頭に立ちこめてから、そのイメージありきの証明が始まる。その証明には正しいと思われる根拠が使われるが、ただイメージの根拠付けのために集められたものである。だから、根拠そのものではなく、根拠に恣意的に付けられたイメージが判断を決めてしまう。

結局のところ、空中に浮いた一般論ではなく、「あなたの判断」がその決断の任を負うのである。

逆にいえば、「なぜ努力しないんですか?」といえ問いがあったとして、

「ごめんなさい努力すべきですよね、努力して自己研鑽して自分の市場価値上げて将来の生活を安定させていかないとですよね。ほんとはやらなきゃと思ってるのにね」と答えたとするなら、答えた側は一般論に判断を委ねまくっている。

一般論と、一般論に自分の判断を下す過程を分離させることではじめて、「すべき理由」がはっきりと見えてくる。自分がやりたいことをやる理由もそこに出てくるだろう。

さっきの悲観的な答えより、「いや努力する必要性感じないんですけど笑」で一蹴してるのほうが心が健康に見える。

【まい投2020-68日目】好奇心が焦燥感を連れてくる

日の終わりに焦燥感がやってくる。あれをやりたかったのに出来てないなと考え出して、今やらなきゃとなる。
結構充実した日の夜でも、ふとやることがなくなった瞬間に「そういえば積んでた本があったな」と普段なら歯牙にもかけないことに意識がいく。試験の前夜に部屋を片付け始めるのと似た心理状態である。

験前夜の勉強からの逃げは、心理学上の言葉で「セルフ・ハンディキャッピング」と説明されている。逃げることで心理的に楽になろうとする防衛機制の一つだ。
試験前の片づけが起こるのは勉強に取り組む前で、いざやり始めると結構続くものである。
勉強をやり始めたとき、自分の意識は手元にあるそのタスクにむいている。ひとたび手元の道具から目が離れると、遠景にピントを合わせることになる。だからやる前とか集中が途切れたときは、タスクをしている間は遠景の内に在ったモノ、つまり漫画とか、散らかった本棚とか、スマホとかに目が行くのである。

れは好奇心が働く格好の条件だ。

見る欲求である好奇心は、「距離をなくしたい欲」ということになる。 視界にとらえた物体Aにピントを合わせ、「バケツか」という一定の理解をしたところでAにこれ以上近づけなくなると、もはやAから欲を満たせなくなって、急激に興味を失う。そして次に焦点にとらえた物体Bに強くひきつけられる。 そうしてA→B→C・・・と目移りする。目移りは、Aがつまんないから仕方なしに、ではなく「距離を取り去りたい欲から来る衝動が視界に入ったものにとにかく向かわせる」イメージのほうが近い。 好奇心に囚われる限り、これを無限に繰り返すのである。

【まい投2020-39日目】無限の好奇心 - ColumPus

好奇心に駆られ始めると、飽きたり疲れたり、やるべきだったタスクが意識に戻ってくるまで、つぎつぎと新たなタスクを見つけることになる。勉強が意識に戻った時、公開とより強い焦燥感に駆られる。いろんなものに駆られまくるなかで、自分を自分でコントロールできない状態に陥っている。

日の終わりにやってくる焦燥感は「あれをやらなきゃな」の「あれ」にピントが合うことでもたらされる、と考えれば、「あれ」を発見する好奇心が焦燥感を連れてくるのだとわかる。
手元にある道具にピントが合いつづけた状態なら、好奇心は卓越しない。「何しようかな」の時間をなくし、決めたことをやって決めた時間に寝る。時間が余った場合にやることを事前に決める。
好奇心がストレスにつながるくらいなら、まして焦燥感から自己肯定感を失うくらいなら、生活から新奇なことを限定して穏やかに生きる方が幸せになれそうに思える。
何か新しいことをしなくてもちゃんと1日は終わってくれるから安心していい。f:id:crowingspear:20201016003644j:plain

【まい投2020-67日目】フィルターを外すことについて【5日目の再考】

5日目の記事にフィルターについて書いた。
フィルターとはメガネの度や色のように、認識や価値判断に差しはさまるクセを指した。
そしてフィルターはわたし自身を知る手がかりになり、手始めにフィルターを外していくのがよい、と結論付けた記事だ。

まだ5日目で言葉の使い方があやふやだったりするが、大意は同じなのでここに紹介する。(今がしっかりしてるとは言ってない)

「すべて高貴なるものは、稀であるとともに困難である」という名言があるように、「真実」という絶対的なものに迫るには、フィルターを知るところから始めるしかない。 「フィルターが何なのか認識すること」は「偏見をこえて真実をみること」なので、同時に自分の個性を知る手がかりにもなるのである。

【まい投2020-5日目】真実はいつも一つで多重的 - ColumPus

はや67日目。この記事からもう2か月経とうとしているが、この間のまいにち投稿から重ねて得たものを手引きとして、5日目の記事を別の言い方で表してみたい。

自分から見て「わたし」はブラックボックスであり、経験を代入して得られた結果を寄せ集め、連立させることでわたしの解像度を上げられる、という主旨で10日目の記事を書いた。
crowingspear.hatenablog.com
経験から直接「わたし」がかたどられるわけではなく、経験から「わたし」の存在を「間接的に」知るのである。

経験は、第一義的には世界のうちに存在するわたし以外の存在者を発見することである。
ここで世界は「わたし」の存在が現れる場所のことを指す。この定義から明らかに、「わたし」は世界の内に存在している。
経験をもとに、「わたし」という行為の主体を含んだ世界観を作るのがPhilosophyたる哲学である。

ここから行為の主体にフォーカスしていくと、自分の行動原理を追い求める道徳や倫理に至る。道徳には必ず行為の主体が付きまとう。誤解を恐れずに言えば、「わたし」がいないところには行動原理は生まれないし、それを追究する倫理も生まれない。「わたし」はフィルターを通して世界を観ているわけなので、わたし特有の行動原理はわたし特有のフィルターをもとに作られる。だからその世界に向いたフィルターを調べていくのが倫理ということになる。

逆に「わたし」のフィルターを排して、遠景としての世界の根本原理を探求するのが多くの学問で、その一つの姿勢が科学である。学問はどこまでも「わたし」のフィルターを取り去り、「誰が見ても同じ世界観」を目指している。誰が見ても同じ世界観はつまり客観で、その視点にはわたしがいない。

冒頭の引用に目をやって、5日目の記事を書いていた過去の自分を思い返してみると、「わたし」特有のフィルターを個性と言い表していた。一方で「真実」という絶対的なものが、この記事で言うフィルターのない世界観に対応している。
(いま思えば客観的が絶対的かどうかは世界観によって違うのでかなり怪しい書き方だった。一方で自分自身そういうフィルターを持っていたと今自覚できた・・・。)
いまここで新しい言葉で5日目の記事を言い換えるなら、フィルターを知るにも、フィルターのない客観を目指すにしても、冒頭の引用の通り、まずは「フィルターを外してみること」である。