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【まい投2020-81日目】「思うを使うな」という呪い

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『「〜だと思う」を使ってはいけない』という漠然とした強迫観念めいたものを持っていた。

思う・感じるを使うと「文章や口に出して何かを伝えるときにわかりづらくなるから断定の『〜だ』を使え」と学校でよく教えられると聞くし、僕もそう聞いた。実際「Aだ」「私は『Aだ』と思う」を比べると後者は文章が入れ子構造になっていて情報量が多いし、どこにフォーカスを置くかで意味がブレるのは確かなことである。実際のところ「思う」ときは「思う」ので、「思う」しか書けないじゃんと感じているし、ブログ記事を書くことが増えてきたここ数年で、罪悪感がやっと薄れてきたところである。

 

「意見と事実を分けて考えなさい」とよく聞く。「思う」は「意見」にもなり「事実」にもなるところが聞く側にとって厄介なところなのだ。

  • 「考える」に似た意見の「思う」

「思う」に対する英語の対訳として「think」があり、そこに「考えを述べる」という動作が付随するごとく、判断を介した自分の意見という意味である。意味としても「考える」に近い。

その「思う内容」を組み立てるのは各人の論理だったり、感覚とか感情に引っ張られながらこねくり回した一連の言葉の数々だったりする。こうした中で発生した心とか精神の動きを、自分なりのに組み立てた言葉を紡いで述べることで意見が伝えられる。意見そのものは主観的な感覚から述べたものでも、客観的な論理に沿ったものでも「意見」として成立はする。

感情というわたしたちの内部で発生する刺激が感覚器官にはたらいた結果、後者の「思われる」的な意味になることもある。

 

  • 「〜に思われる」という「自発」の「思う」

物自体を認識した印象を直接言い表すほうの「思う」である。受動態で使われることが多い。英語で言うと「seem」が該当する。「〜に見える」see「〜に聞こえる」hear「〜に感じる」feelみたいな知覚動詞と同じように、感覚器官で受容した情報をそのまま伝えているイメージだ。それはある意味で強弱で計れる意味で数字のような客観性があり、「事実」に近い伝え方ができる。主観的な事実と言える。

この「思われる」は、「感じ」はするけど私の判断はそうとは限らないというニュアンスが可能なように、まだ自分の判断を介さず、頭で噛み砕いていないないことを示唆している。

 

「考える」は、主観的意見or客観的意見で、

「思われる」は主観的事実とまとめられる。

本来の意味で断定「〜だ」を使えるのは「客観的事実」だけである。

『「思う」を使うな』は、意見として使われる前者の「思う」に対して向けられているのだろう。

評論文のライティングなどでは、単純明快に意見を書くために入れ子構造みたいな複雑な文を嫌う。要は、単にそのほうが伝わりやすいよ、という方法論としての「使うな」なのである。

 

後者は自分の感覚で、もとより「判断を介した意見」ではなく、感覚から判断を練り上げるためのものである。

「使うな」が漠然と心に残った僕のような人がいたとすると、主観的事実の「思う」が取り去られて「自分の感覚」を素材にして「判断」を練り上げる力が失われる。「判断」から自分の感覚が断絶されると、判断材料が真に客観的な情報しか無くなってしまう。「〜したいと思う」とか「〜が好きだ」ではなく、「〜が正しい」「〜が多い」「〜が好ましいと言われている」みたいな客観的事実でしか判断を練り上げられなくなる。

こうして練り上げられた自分の感覚を介さない「客観的判断」と言えるモノが、自分の感覚を介さない「客観的意見」を作り上げる。

こうして「僕は思わないけど、自分の判断はコレ」が成立する。それって誰の判断なの?

 

自分の感覚を断ち切った判断を意見に織り交ぜること自体は、方法論として優れているとは思うし、大昔から学問の一大テーマとして偉大な人々が研究してきたことだ。

僕の場合、漠然とした「使うな」がこびりついたままになったので、まさに「僕は思わないけど〜」状態に陥り、客観的な判断をこねくり回すばかりになってしまった。自分の感覚から意見を作れなくなったので、客観的意見と矛盾して行き場を失った「好き」「嫌だ」「助けて」が、底の方に溜まっていたのだと思う。

泣くのはみっともない」から泣かないし、「しっかりしないといけないからしっかりする。

 

曲解に曲解を重ねた「思うを使うな」は「思うな」に変わり、自分を縛る呪いになっていたように思われる。

 

【まい投2020-80日目】犠牲という名の依存

打てば響く鐘という言葉があるが、打ったとおりに響くだけが鐘ではない。
xという強さで叩かれたとき、yという振幅で触れるとしよう。
誰かの意向に立ち向かう反抗は、y=-xのグラフのように、xに対してyが反対の値をとり続けようとすることだ。
打てば打つほど減衰して響かなくなる  \dfrac{1}{x} 、という防衛反応もまた、xに依存して響いていると言える。
いずれにしても、叩くという入力xに依存した響き方をしているという意味で、なべてこれらは「打てば響く」にくくられる。

反抗は往々にして依存からの脱出を目指すが、反抗者が目指すのは打たれても響かない鐘で、y=0のことを言う。
叩く方は鳴り響く音を求めているわけで、音が出ないとなれば彼はまた叩くだろう。次やその次もy=0を続けられる人はそういないと思う。
見落としがちだが、依存しない方法は「響かないこと」だけではない。「打てば響くがどんな打たれ方をしても同じ響き方をする鐘」もまた依存しない鐘である。つまりy=定数だ。

つい反抗したくなってしまうことを含め、叩かれて反応する・また無反応でいようと努めてしまう限り、自分はその人に依存してしまっている。同じ響き方で居続けること、虚心坦懐に接することが依存しない方法であって、無視すること・遠ざかろうとすること・逃げること・攻撃すること・支配しようとすること諸々はそれぞれ「依存の一形態」に過ぎない。結局、その人を拒絶することはむしろ依存につながるのである。

人は意識せずとも何かに依存して生きていて、何者にも考えを預けずにいるのは真っ暗な荒野に一人でいるかのように心細いだろう。覚悟とは、そのような状況であっても自分の道を進む者に宿る。「犠牲の心」も「~のために犠牲になる」という意味で依存した心であって、やっぱり「覚悟とは犠牲の心ではない」と改めて思うのである。

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画像はイメージです

まいにち投稿じゃない記事

このごろウィルパワーが減退してきてブログにエネルギーを消費するのもしんどくなってきたのだが、いい記事を読んだら気持ちだけは盛り上がってくる。アツい・・・!

 

自分も頭の中から湧き上がってくるアレコレを言葉にしてブログページにぶつけたい・・・あわよくば誰かに読んでもらいたい・・・このごろごまかしで書いた(?)記事を読み返して結構怒りに近いものがこみ上げた。

かわり映えのしない毎日は多分、こういうところから始まる。考えることを減らしていけば考えられるキャパシティは増えるが、その精神的安寧に自分を全て委ねて、考えるのをやめるとせっかく空けたワーキングメモリが無駄になる。やるときは絞る。最近これを忘れていたかもしれない。

自戒を込めてどころか自戒だけの覚書である。

 

 

【まい投2020-79日目】継ぎはぎの地図とパッチ

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地図を作るのに必要なのが測量だ。

測量によって直接測っているのは線分の「距離」、「基準線に対する角度」、「高低差」である。線分だから測量士は大抵2人1組で仕事をしている。彼らは高々数十メートル離れた2点の「距離・角度・高低差」の測定値を、地図が埋まるくらいの数積み重ねて地図を作っているのである。すごい・・・。

 

狭い土地の場合は「平面測量」という方法で測量でき、たとえばひとつの市の中の小さな自治体の地図はこれで作られることが多いし、土地の登記に必要な広さならこの方法で賄える。(それでも大変な作業量なのだが)これが市全体とか県単位の地図だと、とても2人1組で測量して回れないほどになる。どうしても、Aの組とBの組が作った地図を合わせてA+Bの大きな地図を作る必要が出てくる。

 

さて、A組の測量した池からB組の測量した山までの標高差を知りたいとしよう。

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厳密に言えば、A組の測量方法とB組の測量方法は(測量士のクセレベルの細かさで)異なる。Aさんは以下の測量が得意だが山の方は苦手だったりするかもしれない。A範囲の地図とBの範囲の地図をそのままぴったり合わせて正しい地図になるとは限らない。

(実際には測量士自体が国家資格で、そんなことはほとんど起こらないようになっている)

地図をひとつの基準に合わせるためには、AならBの土地をこうやって測量するだろうという変換がわかれば良い。つまりBの測量をAの方法に翻訳するための「辞書」が必要になる。この辞書はAの地図とBの地図の「パッチ(つぎあて)」としてはたらく。

 

ここからはたとえ話。

学問とか哲学とかで唱えられる「理論」「世界観」には、得意分野と不得意分野があると僕は思っている。

たとえば物理の力学での話。我々の生きるスケールでは「ニュートン(古典)力学」で考えるとうまくいくことがほとんどだ。ところが10^-10 mもの小さい世界になるとニュートン力学でうまく説明できない現象がたくさん出てくる。これを説明できるのが量子力学である。逆に途方もなく大きい距離スケールでは相対性理論で説明するとうまくいく。

それぞれ違う3つの理論で3つのスケールでの力学が考えられるのであるが、それをひとつの尺度で説明するためには、

量子力学ニュートン力学相対性理論

の間を継ぎ合わせる「パッチ」があれば便利である。

 

別に学問に限らず、一人一人の哲学=平たく言えば「考え方の違い」にも「パッチ」があれば便利なのに、と思う。

考え方や伝え方に違いはあれど、測量が得意な範囲が違うように、自分には測れない世界をBさんが知っていたりするかもしれないのである。

翻訳の手引きとなる「パッチ」があれば、Bさんの言うことを誤解なく理解できるし、彼にしかできないことをリスペクトしやすいよにな、と思ってやまない。

そしておそらくその「パッチ」は、雑談だったり共通の趣味だったり、共有する価値観だったりするんだろうなとうっすら思っている。

【まい投2020-78日目】好奇心に関する引用集・メモ

このごろ好奇心について何個も記事を書いてきて好奇心に関心持ちすぎでは??????となっているが、ここまでまいにち投稿を続けてきて、このブログの1つの方向性として見えてきたのかもしれない。

囚われないことは、この透明半球の視界360°をすべて見ていることにあたる。すべて見ている以上、すべての情報を自分自身で判断しなければならない。パソコンをメモリ容量を超えて働かせいるようなことが往々にして起こる。こだわりなく見ることは、脳のメモリを圧迫するという意味で苦しいのである。 肩書や信仰みたいな自分を囚らえる存在は、半球内の視界を覆い隠してくれる。 覆い隠された範囲から入ってくる情報は、その「立場としての」フィルターがかかったものになり、考えることを減らしてくれる。 例えば、視界を半分預けられるくらいのフィルターがあったとする。「私の言うことを聞いておけばいい」状態だ。360°のうち180°を見なくて済むとなると、ぐっと楽になる。残り半分だけを自分で判断すればいいからだ。 その意味で肩書や信仰に囚われることは苦しみからの解放になる。

【まい投2020-45日目】囚われることは救い - ColumPus

その意味での「見る」ことは、視界にとらえたものとの「距離をなくす」ことである。 私たちは、視界にあるたくさんのオブジェクトにかわるがわるピントを合わせ続けている。そのつど「あれは何だろう・・・。あ、バケツか。」「花が動いたな、虫が止まっているのか」などと考えて遠くにあるオブジェクトに気を取られ、逆に手元にあるものを見落としている。 その意味で、ピントを合わせている場所が自分に一番近い。ピントを合わせに行く「見る」という行為自体が「距離をなくすこと」と言えるのである。

【まい投2020-39日目】無限の好奇心 - ColumPus

上のたとえが適用できるなら、好奇心からくるナノメートル程度の「小さなスケールの動き」だけでは、わたしたちが「何か成し遂げたい」と欲するような長いスパンでの動きは見込めないことになる。 「これをやるぞ」とあらかじめ決めて実際に行動することで「風に対応する指向性のある流れ」をつくり、瞬間瞬間で好奇心を発揮するのがちょうどいいのかもしれない。

【まい投2020-74日目】好奇心と空気分子 - ColumPus

好奇心みたいな目先の欲求は、空気分子みたいな進み方をする、とつねづねイメージしている。 すごいスピードで動く代わりに、すぐに動きを変える。指向性がなくて、長い目で見ると結局はその場にとどまっている。好奇心で目に捉えたことを行動に移そうとすると、途端に退屈になる。好奇心で「ものごとを把握」するスピードに対して、実際に「経験したことを理解」するのはかなりゆっくりだからだ。 教科書のまだ習っていない範囲を見て教科書1冊わかった気になるのはすぐだが、実際に問題に当たって解けるようになるまでにはもっと時間がかかるのと同じだ。

【まい投2020-74日目】好奇心と空気分子 - ColumPus

その意味での「見る」ことは、視界にとらえたものとの「距離をなくす」ことである。 私たちは、視界にあるたくさんのオブジェクトにかわるがわるピントを合わせ続けている。そのつど「あれは何だろう・・・。あ、バケツか。」「花が動いたな、虫が止まっているのか」などと考えて遠くにあるオブジェクトに気を取られ、逆に手元にあるものを見落としている。 その意味で、ピントを合わせている場所が自分に一番近い。ピントを合わせに行く「見る」という行為自体が「距離をなくすこと」と言えるのである。

【まい投2020-39日目】無限の好奇心 - ColumPus

人のうわさはなるほど好奇心からくるものである。これを吹っ切るのに75日かかるということは、好奇心の行動の自由行程が影響をなさなくなるほど十分に長い時間を経るのに75日かかる、という類比を立てられる。 大雑把に100日とすれば、分子運動(60nm)と日常の風(1m)のスケール比を適用させて好奇心の自由行程を求められる。 すなわち 好奇心の自由行程100日=60nm1m好奇心の自由行程100日=60nm1m 計算するとおよそ0.5秒である。好奇心の移り変わりは0.5秒で行えるという計算なのである。なんたる速さ・・・。

【まい投2020-75日目】「好奇心」:「人のうわさも75日」 - ColumPus

【まい投2020-77日目】結婚しなくても幸せになれる時代に・・・

「結婚しなくても幸せになれる時代に、私はあなたと結婚したいのです」
2017年の広告で使われたゼクシィのキャッチコピーだ。このTVCMに衝撃を受け、今でも結婚の話が出るたびに思い出すし、より結婚を素敵に思えるようになった。人生の選択肢が増え、結婚が「幸せな人生」観から分離してきた時勢である。分離した「結婚の本質」を問い直すことで、「あなたと結婚すること」積極的に望んだ幸せとして人生に再結合させている。結婚に対する恨みつらみがSNSの水面に浮き出してきたなかで、底抜けに明るくて建設的な考え方でとても好きだ。考えたうえで結婚を選ばない人への尊重も示唆されているにも良きである。

CM視聴後、「幸せな人生」観と結婚のように、「切り離されたものを一旦手に取って捉えなおす」ようになった。
切り離された状態とは、1つのものが互いに違う2個であることを認識できていることを言うと思う。1個のものを一旦解像度を上げて見直してみるのである。ピザを食べた人がそのおいしさを深く理解するとき、1枚のピザをチーズとか生地とかの材料ごとに分けて認識するのと同じだ。。ピザの解像度が上がった状態と言ってもいい。そのうえで、材料が合わさってピザになったことで出てきたおいしさをかみしめるのである。これが「ハーモニー」なんですね・・・といった具合に。

ここからは個人的な話なので、他人がそうあるべきという主張を唱えるわけではないのだが、人生のあらゆる選択肢から「生きること」を選択している自分をとらえなおしたことはある。人生観から「生きること」を分離させると、当然「死ぬ選択」も頭をよぎってくる。なぜ死ぬ選択をしていないのか?どうしても生きなきゃならないのか?そんな感じで自分に問うのである。人生のほとんどのシーンで考える必要のないことだし、実際四六時中考えるのがしんどそうな内容なのは確かだ。でも問答を終えて「生きる選択」を掴んでからは、その前より積極的に幸せと言えるようになった気はする。

問答の末分離したモノの再結合を選んだなら、その実「積極的な肯定」をしていることになる。現状の自分が幸せなのか問い直したくなり、「今の自分の立ち位置」だったり「もう下してしまった決断」を手に取って捉えることも時にはあるかもしない。この会社に入ってよかったのだろうか・・・?あなたと結婚するのが幸せだったのだろうか・・・?だとか。
なにかと「現状維持」に厳しい世の中ではあるが、現状に漠然とした不満を抱えた所から明るい眺めの場所へと歩むための問答になっていると信じたい。