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【まい投2020-16日目】プラネタリウム 内から見るか、外から見るか

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中から見たプラネタリウム



ラネタリウムに行ったことがあるだろうか。

中心にある投影機をドーム状のスクリーンに映し出すことで、本物さながらの星空を見ることができるのがプラネタリウムである。

プラネタリウムの景色が「本物さながら」な理由は、実際と同じ見え方を再現しているからだと思う。本物の星空を見上げるとき、遠くの星も近くの星も「同じ距離にある点」に見えてしまう。同じ距離にある点は球状に分布しているように見える。これがプラネタリウムのスクリーンを内から見た景色と同じ形なのである。

そして視覚は全知覚の大部分を占めるので、我々の外部にあるモノへの考え方、主観や客観のような認知の仕方もプラネタリウムに当てはめて模式的に例えられるのではないか、と考えたわけだ。

ありていに言えば、人はプラネタリウムの世界観をもっている、と僕は考えている。

 

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ラネタリウムの世界観とは、おおよそこうだ。

スクリーンのある屋根が自分の外側と内側を分ける境界になっていて、外から中の様子は見えない。内側から見れば外の世界はスクリーンに映った像として見える。マジックミラーのような見え方をしている、と言ってもいい。

「内側」には、普段外に出ない価値観や考え方があって、そのレイアウトは個人によってさまざまだ。スクリーンには外の景色が投影されている。

「外側」にあるのは目に入る前の景色で、普段は外から中を見通すことはできない。外から見えるのはドーム状の立派な屋根だけである。屋根は自分が外に見せる側面であり、平たく言えば「みてくれ」や「性格」である。

 

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プラネタリウムの外観(葛飾区郷土と天文の博物館)

ラネタリウムの世界観では、主観を、内側からスクリーンを見ることに喩える。

我々が近くしているのは外側の景色をスクリーンに映した2次元映像であって、実際に外側にあるオブジェクトを目に入れているわけではない。

外の世界にある人やモノは、その一側面しかスクリーンに映せない。目に映ったものと真実が違うのは、構造上一側面しか捉えられないからだ。月の裏側が地球から見えないのと同じである。この話は7日目に触れた。【まい投2020-7日目】写真を撮ること - ColumPus

プラネタリウムのプログラムが博物館によって様々なように、スクリーンへの「映し方」の違いは外の世界を解釈するときの「とらえ方」の個性なのである。フィルターという言葉で5日目に触れた内容である。

【まい投2020-5日目】真実はいつも一つで多重的 - ColumPus

  他人から自分を見る目は「客観」と呼ばれるが、先ほど述べたように、ドーム外から自分を見ることに喩えられる。しかし外から見れるのは屋根だけで、自分の「内側」たる哲学は平時では見えない。見えるのは自分がアウトプットした時だけである。10日目にも書いたが、とにかく何かやってみて、良くも悪くも結果を見ないと自分の内側は外界には出てこない。経験を積んだ人ほど、客観視がうまいのはこのせいかな、とにらんでいる。

【まい投2020-10日目】ブラックボックス - ColumPus

  プラネタリウムを内から見たのが主観、外から見たのが客観。少し乱暴だがこういう世界観を持っている。この世界観を使えば色んな現象を考察できる。

 

こでは14日目の記事に書いたことを思い起こしてみる。

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「自分の客観から見た相手」という言葉を読むと、「自分の主観から見た相手」との違いを意識せざるを得ないが、どうにも自分以外の者が自分の中に潜んで勝手に相手を認知しているように思えてきてならない。

【まい投2020-14日目】客観のひき算 - ColumPus

この「自分の内側にある客観」の正体について考えてみたい。

これをプラネタリウムの世界観に当てはめるなら、ドームの内側から、内側にいる自分を見ることにあたる。

 実際の客観は外から自分の「そとづら」を認識することなので、「自分の内側が見えない」というのは先ほども述べたことである。

「自分の内側にある客観」は、自分の内側を見通すことができる。この眼からは、自分のコアな哲学が丸裸にされている。にもかかわらず客観という名前を冠している以上、離れた視点からコアな部分の自分を批判的に見てしまう

 実際の客観では、自分の哲学を外にさらすことはなく、「見た目」や「性格の外面」に対しての批判や反省をすればよい。傷つくのは外側である。

コアな部分を晒して自分を批判的に省みるのは、それを傷つける危険をはらむ。内側の客観視と本来の客観視を混同してしまっている場合はなおさら危険である。自分が自分を見ているのに、他人から攻撃されたように感じる。傷ついた心を防衛するために、より離れた人格に依存しやすくなってしまう。

「勉強しなきゃいけないのにやらない」ことに対して、「できるように行動を変えよう・環境を移そう」「僕にとってそんなに大事なことじゃない」と考えるのが本来の客観視だが、内側の客観視は「どうしてやらないんだろう」「自分が怠けているのではないか」「人格がダメなんだ」と進んでいく。

自己分析することはいいが、客観的・批判的な反省と区別しないと、プラネタリウムは内側から荒んでしまう。スクリーンは汚れ、外の世界も魅力的じゃなくなる。その荒みが外に見えるようになったころには、もはやプラネタリウムの役割を果たせない。もう一度きれいな青空を移すにはかなりの工期を要するだろう。

 

ラネタリウムを内から見るか、外から見るかはしっかりと区別しておきたい。