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【まい投2020-4日目】画像について考えた思索

昨日、色んなネタを記事に昇華するプロセスを書いた。(一部言語化できなかったが)

 

crowingspear.hatenablog.com

 

「画像」をテーマに、その一例を示してみたい。「あるきながら考えた道程」ゆえにまとまりはないが、こんな感じに思索を巡らせている、という言語化しにくい部分を書いてみたので留意されたい。

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像は色のついた点が集まってできており、これらが密に詰まっているほど解像度が高いそうだ。色のついた点の配列がデータとして写真を画像という情報に変換にしているというわけである。

私たちが世界を見るときにも同じようなことが起きている。眼の中にあるレンズを通った光が神経に渡されるときにはすでに情報になっていて、脳が見れる画像になるよう処理する。

 

眼・神経・脳での情報の移動・処理の仕方には、人それぞれ独自のクセがあり、それをマクロに見れば価値観の多様性となって表れる。こんな話をしたのが去年の「メガネ」という記事だ。

crowingspear.hatenablog.com

 私たちは価値観のフィルターを通して世界を見ていて、その価値観によって自分の大事なものを要らない情報から選り分けることができる。フィルターは情報を一部遮断する役割を果たすので、情報をフィルターに通せば「解像度が下がる」。

 

値観は偏見とも言い換えられる。ジェンダーが男だから・むかしある民族にひどい仕打ちを受けたから・・・ついついその常識に囚われて世界を見てしまう。

フィルターを取り去れば取り去るほど、情報を捨てる前の「真実」に近づくことができて、より多くの人と同じものを見ることができるかもしれない。科学の諸分野は、ア・プリオリなもので論理をスタートすることで、フィルターを極力排除しようとしている。その意味で科学は、みんなの共通の言語と言える。

 

に考える。フィルターを取り去ることが「みんなと同じものを目指すこと」だとしたら、自分のフィルターがどんなものか知ることは「自分の独自性を見出すこと」だ。他人の個性も、同様に知ることができる。

少し暴論だが、偏見は自分の独自性の1つであり、偏見の集まりこそが自分の個性である。

みんなと同じものを見るのは大事なことだが、「偏見というフィルターがダメなもの」とは決して言えない。それでも個性を認めるために、一度みんなに共通のものを見たうえで、それぞれのフィルターを設定しなおす必要がある。

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以上が一通りの思索である。2日目の記事にあったように、ここから整理するために人と話したり、図に表したりするわけだ。