【まい投2020-5日目】真実はいつも一つで多重的
フィルターの話をした。
人は世界を見るとき偏見のフィルターを通して情報を受け取っていて、フィルターの一つ一つが情報を遮断することで認知の仕方に個性が生まれる、という話だ。
そしてフィルターをさかのぼると一つの真実に行き着く。フィルターを取り去るほど、見られる表象は真実に近くなる。
ここからが今回の話。
「真実が人に情報を与える」過程でフィルターによって情報は減じられるので、フィルターを通っていない情報が一番情報量が多いことになる。そしてフィルターを通っていない情報とはそのもととなる「真実」だ。
同じものを見たはずのA君とB君がaとbという別々の判断をしたとしても、それはどちらとも同じ真実が持っていた要素だ、と言ってもいい。
真実を求めるのは、誰にでも共通する結論を見出すこと。
しかしながら「誰にでも共通」は「aともbともいえる状態」、「事実が折り重なり、平坦で薄まった可能性に成り下がった状態」である。真実は一つだが、多重性がある。
同じ真実から派生した情報から別々の結論が生まれてしまうのは自然なことということもわかる。
真実を求めることは大事だが、A君とB君がそれぞれ得たaとbの結論にフォーカスすることもできる。
フィルターは偏見であるとともに個性でもあるので、得た結論は個性を知る手掛かりになる。ほかの人がbという結論を得ているところを自分がaという結論を得たなら、その原因はフィルターの違いがもたらしている。外国に住んでいるC君の結論がcだったなら、aとcの違いが文化というフィルターの違いかも?という考察の手掛かりになる。
「すべて高貴なるものは、稀であるとともに困難である」という名言があるように、「真実」という絶対的なものに迫るには、フィルターを知るところから始めるしかない。
「フィルターが何なのか認識すること」は「偏見をこえて真実をみること」なので、同時に自分の個性を知る手がかりにもなるのである。この点で、真実に向かおうとしている時点ですでに何かを得ている。