【まい投2020-13日目】アンノーンK
昨日は「防犯カメラの視界」を足がかりに、人がみている視界について考えた。
「未知を解釈するための基準は既知の中にある」という話だった。
まとめが一般的すぎるので、例え話を含めて書き進めてみる。
たくさんの形を持つアンノーンというポケモンの現地調査をする研究者がいたとする。
- アンノーンKが視界に入ったとき、「既に知っているアンノーン」を基準にそれが何か判断をする。研究者は「アンノーンKだ」と解釈した。
- このとき研究者の頭の中で行われた『このポケモンはアンノーンKだ』という、Kへの個別の解釈は、「研究者が持っていたアンノーン全体の理解」の一部でもある。
前者は、「全体の理解」から「個別の解釈」をしているが、後者は「個別の解釈」を連ねて「全体の理解」を織りなしている。
この時点で、個別「アンノーンKへの解釈」と全体「アンノーンの先行理解」どちらが先かで次のようなループが発生する。
【「Aへの解釈」+「Bへの解釈」+・・・⇄ 「アンノーンの全体理解」】
人は何かを見る・知るたび、解釈と全体理解をループさせている。
説明できる理解や解釈である必要はなく、無意識・感覚の理解でも、「あの時のアレだ」「こんな気分になった」という形で解釈されうる。
自分の中で解釈を作って理解に入れておかないと、教科書を眺めただけではテスト問題は解けない。
研究者の「今見たのもアンノーンKだ」という解釈は「アンノーン理解」の中に混ざる。
新しく得られた解釈は理解に加えられ、理解をアップデートさせる。この繰り返しが理解を広げる唯一の方法である。知的活動の醍醐味はここにあると思っている。
余談だが、もし出会ったモンスターがニャルラトホテプだったなら、研究者が持つ理解は頭のどこにもない。
だから彼の知識にも、無意識にもニャルラトホテプは解釈できない。
頭がパンクして倒れてしまうのも致し方ない。