身の回りにはたくさんの波が飛び交っている。人はその波を情報として受信する。
聞こえてくる音は空気の疎密が波になって鼓膜に届く。目で視えているものは電磁波の一種である光となって網膜に映った像が元である。
情報は電気信号に変換され、波として神経を通って脳に届く。波のおかげで私たち見たものに対して感動したり、感じたことからあれこれ判断ができるわけだ。
波には無限に情報を詰め込める。どんなに複雑な形の波も、それよりも簡単な波の重ね合わせで表現できる。オーケストラの楽器が奏でた一つ一つの音が一つの音楽になって私たちの耳に届くように。
私たちが外界から受け取る情報は単純なこと一つ一つの、無限の重ね合わせである。どれだけ混沌とした世界に見えても、重ね合わせである以上、理論上それらは不可分ではない。
人間の中身も同じだ。悲しみも喜びも電気信号として神経を走り回る情報である。気分は単純な一つの感情から成り立つことはほとんどなく、色んな感情の重ね合わせが一つの気分として感じられる。そして同様に、重ね合わせである以上もとは分けられているものなのだ。
複雑な波形を見たときに、どんな波の重ね合わせであるかを知るには、「波の形」をたくさん知っている必要がある。
掛けて24になる数字の組み合わせについて、1×24しか知らない人と、4×6や3×8も知っている人では24という数字から得られる情報量が違う。
同じように、「好きだ」という気持ちについて「自分にとっての異性に魅力を感じること」という狭い観念しか持っていない人には、それ以外の気持ちの重ね合わせがあることすら想定できない。よしんばその気持ちに何か別のものが混ざっていると感じることができたとして、ノイズだと思うだろう。
重ね合わさって複雑になった波が人の気持ちの元となっているのであるが、一つ一つの気持ちがどんなものか知っている人ほど気持ちを分解し、全体のとしてそれがどんな気持ちかを理解しやすい。
逆に、知らない人ほど自分の気持ちを分解したり全容を掴むのが難しいこともわかってくる。
そもそも「悲しみ」「怒り」「功名心」などという言葉を使っている以上、人にはこれを分ける能力が備わっていることは自明なのであるが。