私たちの視界にはフィルターがかかっている、という話をしたのが今年のまいにち投稿の4日目である。
そのフィルターのおかげで、同じものを見ても同じように見えているわけではない。
その見え方のクセが個性そのもの、という論旨だった。
【まい投2020-4日目】画像について考えた思索 - ColumPus
インプットにかかるフィルターには、情報が脳に至るまでの目や神経も含まれる。神経を電気信号として通った情報は脳にて視覚情報に再変換される。神経の伝達のクセや、脳内での再変換時のクセによって、「思想・哲学を挟む間もなく」見えているものは変化する。
景色の見え方の思惟外での違いは、「形によって認識しづらい」等いろいろあるが、イメージしやすいのが「色覚」の違いだ。
「色覚障がい」という障がいを持った人がいて、多くの人が認識できるような「色の違い」を識別できなかったりする。そのような人にもみやすい配色で作られたイラストなどは「ユニバーサルデザイン」の一種だ。
他の方の記事だが、いらすとやのイラストでこの感覚を解説した記事がわかりやすかった。
障がいを持つほどでなくとも、細かく見れば「色覚」は一人一人違う。
「赤色」を想像したときに、Aさんには「あかい色a」に見えるし、Bさんには「あかい色b」に見える、というイメージである。
ここで、「あかい色c」を見ているCさんがそれを指して「これは赤色ですか?」と聞いたときに、AさんもBさんの眼にはそれぞれ「あかい色a」「あかい色b」が見えているけれども、2人とも「はい、赤色です。」とこたえるだろう。
どんな人も、例えばAさんも、実際に見えているあかい色「a」と、概念としての「赤色」をリンクさせている。
「あかい色a」は実際の経験だが、「赤色」という概念は他人がそれを「赤」と言っているのを見てはじめて知ることができる。
そのときAさんにとって「赤色」は「あかい色a」に色づき、色のついた「赤色」として、景色を判断するフィルターに加えられる。仮にAさんの色覚をBさんに一時的に与えたら、Bさんは「あかい色a」を赤色として認識できないだろう。Bさんにとっての赤色は「あかい色b」だからだ。
ここで着目するのは、人から与えられた「赤色」という概念が、Aさんの主観に入り込むということだ。赤色=「あかい色a」という観念を持ったAさんは、それを手引きにして色を識別する。Aさんが「あかい色」を見たら、「赤色よりは少し薄めだ」と言うだろう。
自分が経験したことが知識と結合すると、それを手引きにして別のことを判断することが可能になる。「りんご1個を持っているD君がおかあさんからりんごを1個もらったら2個になる」というD君の経験が「1+1=2」という知識と結合すれば、「1+2」もりんごを手引きにして計算することができる。
経験と、経験していない知識と結合させることによって理解を拡大していくことができるのである。こうして作られた理解に仮託して、人は次の理解を形成していく。
理解に知識が混ざり、次の理解が生まれる。その根っこは自分の経験である。
つまり、理解は経験+知識または理解+知識の形をしている。経験を根にしているので、「経験を手引きとして」地続きの知識形成ができる。
経験したことを積み重ねるだけでは、人は自動車に乗れないし、硬い屋根付きの家に住むこともできなかっただろう。このような「経験を手引きにして理解すること」が人間の進歩のエンジンになったのは間違いない。
では、知識+知識の結合は理解と呼べるだろうか。
「生壁色をもう少し暗く黄色くした色が根岸色です」と言われて、「ほーん、わかったわ」とはならない。「自分がみたこともない色」は理解につながらないのである。
知識と知識の結合には、「自分」がいない。自分の理解ではなく、「知識が考えた理解」である。自分の存在が判断の場から滑り落ち、知識に主観を明け渡してしまう。
「主観を明け渡す」については、別の記事で書きたい。
知識の拡大と理解の拡大には違いがありそうだ、というところまでは記しておく。