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ColumbusのたまごColumnブログ

【まい投2020-23日目】天と地の違い

 い色という「実際に見た色」・赤色という「知識としての色」の違いを例にして、「経験+知識」の結合が地続きの理解をひろげていく、という話をしたのが昨日の記事だった。

crowingspear.hatenablog.com

 

面にある経験から、空中にある知識が添え木となって、知識を辿りながら天に向かって伸びる「豆の木」。以後では、理解の広がりをこうイメージしながら書く。ここでは、知識を「伝聞によって得た概念」としている。

 引用元にある地続きの理解とは、豆の木の茎や蔦の部分のことである。経験は自分が目に入れた真実を、自分固有のフィルターに通して解釈したものであった。その意味で、地続きの理解の蔦には根底に「自分がいる」。経験があることによって、「納得して」「腑に落として」理解できる。

 一方、「知識+知識」による知識拡大についてはこう書いた。

知識と知識の結合には、「自分」がいない。自分の理解ではなく、「知識が考えた理解」である。自分の存在が判断の場から滑り落ち、知識に主観を明け渡してしまう。

【まい投2020-22日目】色を理解すること - ColumPus

知識は、それ自身では自分の経験由来のものではない。よって、理解していない知識と理解していない知識をつなげて地続きに理解することはできない。こちらの理解は、「自分のいない」=「納得のない理解」である。

「生壁色をもう少し暗く黄色くした色が根岸色です」と言われて、「ほーん、わかったわ」とはならない。「自分がみたこともない色」は理解につながらないのである。

【まい投2020-22日目】色を理解すること - ColumPus

納得した理解には、必ずどこかで自分の経験と地続きにつながっている必要がある。

 

が地続きの理解を広げているといっても、理解を拡大するときに人が毎回経験から辿って考えているか、というとそうでもない。

雲にまで届くような高度に複雑な知識を理解に収めるために、近いところにある既存の知識を足掛かりにして理解の蔦を伸ばすのである。

「99×2」の計算をするとき、下向きに

  1. 「筆算を用いる」
  2. 「筆算で実際に計算しているのは90×2+9×2」
  3. 「9×2は9+9」
  4. 「9+9は繰り上がりの計算で10+8といっしょ」・・・

と辿って「りんご1個とりんご1個で2個になる」という経験に行き着くわけだが、実際には2番目くらいまでしか意識しない。経験まで降りて理解するより、人から聞いた知識に乗っかるほうが圧倒的に速いからだ。一方経験したことから辿って「腑に落とす」のは非常に時間がかかる。地面より上の添え木から知識を引き出し、その一段上にある知識に蔦を伸ばしているのである。

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理解の蔦

り高度な知識を理解しようと思ったなら、地べたの経験からはるか上空の添え木を使って蔦を伸ばす必要が出てくる。

ここから見ると逆に、経験したことは雲のはるか下である。経験を手引きに広げていた理解から、経験が薄まる。「経験+知識」の理解から、「知識+知識」の理解に近づく。つまり「納得のない理解」に近づくということである。そして遠ければ遠いほど、納得しにくくなる。

99×2の話で例えるなら「筆算の計算方法はわかるし9×2もわかるけど、なんで筆算したら答えが出るの?」という理解状態である。筆算は一応できるが、腑に落ちないまま問題を解くことになる。

 経験からはるか遠い添え木を基準にした理解が「納得」しにくくなっていくのである。

 

験から離れた場所にある知識を基準にして理解を広げるのは、「PCにない文書をクラウドから持ってきて編集する」ようなものである。知識が高度に複雑すぎて経験から辿れずに、自分の外にあるものを手引きにしてしまうのである。そうなると自分の固有フィルターではなく、外部のフィルターから情報をインプットしてしまう。

バーチャルリアリティ」みたいな新しいワードが哲学的なものの理解にすごく役立つので、この時代に生まれてよかったと思うことがよくある。

 フィルターは各々の個性だという話をした。

【まい投2020-4日目】画像について考えた思索 - ColumPus

 

ラウド化された知識をインプットする際に個性を失ってしまう現象は、去年の「遊戯王Advent Calendar」の記事にて考えていた。

crowingspear.hatenablog.com

TCGでデッキを組むときに、その基準が対戦ではなくツイートや動画サイトに上がったデッキレシピになり、自分の経験から隔絶される。しかもデッキレシピは、プレイングや環境などの経験を伴わないとわからない情報に比べると、圧倒的にインプットが早い。もともとデッキを組んだ人間の経験を出発点にして、その人の環境やプレイングのクセに応じた思考のストーリーがあってそのレシピに至っているのに、漠然とした「最適解」を頭の中に作り出す。

「ブンボーグ003を出したらアウローラドン経由でもっと展開できてワンキルいけるじゃん」「ミストバレーの幼怪鳥はいってたらドラグニティじゃないじゃん」みたいな、攻撃的な視線が自分にも他人にも向き、デッキを組むのをどんどん苦しくする。

 自分の経験や対戦から理解したのではなく、「ブンボーグ003を使う場合の最適解」「環境デッキという名の何か」「幼怪鳥を使う誰かやつ」などという実体のないものに憑りつかれ、主観を「何か」に明け渡してしまっているのである。

憑依している「何か」は、「自分の内側に潜む自分以外の者」として主観を奪い、自己分析で自分を傷つける。16日目の記事を参照されたい。

【まい投2020-16日目】プラネタリウム 内から見るか、外から見るか - ColumPus

 自分のいる環境を知って、対戦を繰り返す中で経験からデッキを作り上げることで自分だけのデッキを作り上げることができる。個性的なデッキを作るにはまず自分を知るところから、という趣旨なのであった。自分を知るにはまず経験からなので、これは10日目の記事にもつながる話である。

【まい投2020-10日目】ブラックボックス - ColumPus

 

験から遠い知識が多いほど、頭でっかちで倒れやすい木になる。

これを避けるには、同じ高さの経験を増やすか、山みたいな標高の高い地面で経験をつむのがいい。「りんご1個とりんご1個で2個になる」という経験だけから掛け算を理解するのではなく、「みかん9個入パックを2つ買ったら18個」という経験を、「掛け算を理解する足場」として加えれば、より幹は安定する。

こちらの経験は、「より高度な経験」と言えばいいだろうか。

 

から教えられたもので自分の価値観が作られている以上、人は根底では憑依されて生きている。言葉ですら思考にフィルターをかける原因になる以上、完全に払しょくすることはできない。だれも純粋な自分を完全には知らない。

街頭インタビューを受けると、テレビで見たインタビューみたいな答え方を意識するし、いつの間にか受け売りの話をしてしまうものだ。それは人から伝え聞いた身の振り方であり、インタビューを実際に受けた経験から理解したものではない。そのどれが経験からつながって理解したものなのか、日常で意識する機会がない。実質、天と地がつながっていないのだ。

フィルターを一度取り去り真実に迫る、「地に足の着いた理解」を手引きに、自分であるところの自分を見失わないようにしたい。