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【まい投2020-28日目】大人と諦め

「大人になる」とは「諦めること」と誰かが言った。子どもの自分には良くわからなかった。

 

「大人」というワードが意味を持ちすぎて捉え所がないせいもあったかも知れない。

逆に「いつまでも子どもな人」と言うと、「純粋・やりたいことに素直・向上心を捨てていない」みたいなポジティブなニュアンスと、「現実が見えていない」みたいな冷ややかなイメージが混在する。

 

めるという言葉に対しては「ギブアップ」みたいなイメージがつきまとう。

ただ「諦める」はもともと仏教用語で、「ものの道理を明らかにすること」が原義だ。「明らかにした上で、フラットに考えて冷静な判断を下す」というニュアンスである。

 

めの対義語は「執着」である。心が囚われてしまって、やめ時を失ってしまっている状態である。視野が狭窄し、冷静な判断がつかないのである。

これは余談だが、たまに執念がいい意味で使われるのはあくまでも「本当は良くない執着をしてまでやるという意気込み」に対してであって、第一義的に「執着」はネガティブな意味である。

 

の意味を見れば「諦め」とはやはり、現実が見えている状態のようだ。

ただ、「やりたいことを断念する」意味でもない。なりたい自分が実現できるなら、諦めはそれを邪魔しない。やりたいことに「執着」するなら、諦めがブレーキになるだけの話だ。諦めと向上心を捨てることとは分離できそうである。

 

「大人とは諦めること」と言った誰かが、そのにどんな意味を込めたかは未だに分かっていない。なるほど確かに、「諦め」ができるのは立派な大人っぽいのはわかった。執着を捨てるには途方もない知識やら濃密な経験やらが必要だからだ。