ColumPus

ColumbusのたまごColumnブログ

【まい投2020-34日目】囚われているのは「誰」?

「囚われる」という言葉は、本来は「捕われる」と同じ意味である。囚人(しゅうじん)をイメージすると分かりやすい。

文字の形を見ればわかるように、箱の中に人が閉じ込められている感じである。「縄で縛って捕まえられる」というよりは「牢屋にぶち込む」イメージのほうが近い。

 もう一つ、「固定した価値観や考え方などに拘束される」という意味もある。

概念的な意味は、往々にして実際の動きを喩えたものである。

「考え方に囚われること」は、「誰かから牢屋みたいなところに入れられて出られなくなるイメージ」なのである。

 

「囚われる」という言葉は、「囚う」という言葉の受身形なので、当然だが囚えている側と囚われている側両方が存在する。わかりやすいところでは、他人の意見に囚われる場合、囚われているのは「自分」だ。

 

は自分の中の価値観に囚われる場合、「誰が」囚われているのだろうか。

「お金がありさえすれば幸せ」という偏見に囚われている場合、囚える側も囚われる側も自分の内側に存在している。

「自分に自分が囚われている」と言ってしまえばそれまでだが、もう少し解像度を上げて考えれば囚われの身から解放されるときの手引きになるかもしれない。

 

われている側はその間、「本来いるべき場所にいないこと」が示唆されており、逆に囚えている側が「本来いるべき場所に」代わりに存在している。

偏見の例で言えば、囚える側は「偏見」である。偏見が本来いるべき場所を陣取っていることになる。その場所とは「考えたり判断する立場」のことであることもなんとなくわかる。

 

23日目・26日目の記事で「主観・判断を明け渡す」「憑依される」と呼んでいたものが、この「囚われる」「囚える」の話につなげられると思う。 

自分のいない理解

一方、外から得た知識+外から得た知識での理解は、経験を根としていない。外の世界でどれほど理論づけられた語りであっても、ただ聞いただけでは根源的な理解ができない。その語りを経験した時と場所に自分がいないからである。結局は、「宙に浮いた理解」である。「自分のいない理解」「納得のない」理解とも呼んでいた。

気に入った表現なので何度でも引用するが、つまりこれである。

「生壁色をもう少し暗く黄色くした色が根岸色です」と言われて、「ほーん、わかったわ」とはならない。「自分がみたこともない色」は理解につながらないのである。色を理解すること-ColumPus

こちらは、自分の外で知識同士が繋がれていて、そのつながりをまるまる頭に入れるものである。その意味で、知識を繋げる判断を自分以外の何かに明け渡している。言い換えれば、自己は他の者に憑依されているのである。

【まい投2020-26日目】デッキ構築は対戦から - ColumPus

うに、主観とは望遠鏡のある場所のようなものだ。

「偏見くん」に望遠鏡をとられてしまったら「わたし」は外の景色を見ることができない。本来ならば「わたしがそこにいるはず」なのに、「偏見くん」がそこにいるせいで「わたし」は望遠鏡のないとことに追いやられる。このとき「わたし」は望遠鏡を「偏見」に明け渡してしまっているのである。

その間、「偏見くん」が見た景色を聞くことでしか、「わたし」が外の景色をうかがい知ることはできない。判断の基準も「偏見くん」のフィルターを通してしか行えない。このとき「偏見くん」が判断基準に憑依する。

 

々は誰かが考えた「言語」や「法則」を使わないとものを考えられない。知らず知らずのうちに、自分では経験していない価値観や常識を「正しいと仮定して」「それに乗っかって」ものを考えて判断している。「偏見」も「正しいと仮定されて乗っかられるもの」のひとつに過ぎない。偏見と常識はこの意味で同じグループにいる。

知らず知らずのうちに「わたし」たちは「囚われて」いる。囚われることは人の本質に属している、と言ってもいい。

 

からといって「何ものにも囚われないようにせよ」と言いたいのではない。そもそも「囚われ」は人の本質なので、それ自体が悪とは自分以外の誰も断定できない。

囚われている「わたし」が本来どこにいて、囚える側がいつそこに陣取ってくるかを知ると、『「わたし」と「囚われている自分」の区別がつかず、わけもわからず「わたし」が苦しむ』ことは減るんじゃないかと思う。

具体的には『「好奇心」で色んなことを調べるのに躍起になっている人』が当てはまるかもしれない。好奇心に囚われた結果、あれもこれも知っているけれども、どれも極められない自分に「こんなはずじゃなかった」と違和感を覚えてしまうような状況である。

 

分の価値観は分離不可能ではないか、という疑問が浮かぶかもしれない。

確かに価値観は「自分」に含まれているが、ここでは囚われる側の「わたし」・囚える側「価値観」の間の区別を考えている。

自分とは「価値観」や「わたし」を内に包む場所だとイメージすればわかりやすい。

 

値観は自分の内側にあるけれども、自分という「プラネタリウムのドーム内」にいる「わたし」もまた内側にいる。

「囚われ度0%」みたいな状況を考えるれば『自分はその価値観を含むけれども「わたし」は囚われていない』ことも可能とわかる。

【まい投2020-16日目】プラネタリウム 内から見るか、外から見るか - ColumPus

『「わたし」を偏見や価値観が囚える』という「ドーム内の現象」はたほう、その価値観と「わたし」が別物だと認識可能なことの証明にもなる。