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【まい投2020-35日目】バチはもう当たってる

悪事を働いた者が報いを受けることを「バチがあたる」という。

 

「バチを当てている」のは神様や仏様のような存在だ。鉛筆を粗末にすると「鉛筆の神様が〜」と言われたりする。

ただ、「悪事をはたらかれた者自身が罰を与えに来る」というイメージは無い。せいぜい化てて出てくるくらいだ。

 

また「バチ」と「悪事」の因果関係は、有ってもいいが、なくても「バチ」として成立する。

ゴミを捨てたら全然関係ない場所の石に躓いてしまって「ホラ、バチが当たった」と言ってしまえるほどだ。

 

目の前にある存在が報いを受けさせるわけでもなく、悪事とに因果関係が不要となれば、それを結びつけるものは論理でなく人である。

悪事を悪事と認識するには、それに対する「後ろめたさ」が要る。

 

悪事が「後ろめたいこと」と思っていたところに不運が降りかかったとする。「後ろめたさ」が悪事と、因果関係のない不運とを結びつけてしまい、「バチ」が成立する。

悪事を働いた時点で、その後どんな不運がふりかかろうと、それが悪事の報いかのように思えてしまうのだ。

つまり、後ろめたさを感じた瞬間、「バチ」が当たりはじめている。その意味で、悪事自体がバチのはじまりののである。

 

この考えが僕の中に根付いてしまっていて、悪事をする人に「報いを受けてほしい」とかは思わない。すでに報いを受けはじめているからだ。「後ろめたさ」にずっと追っかけられて生きていく点を見れば、むしろかわいそうに思える。

 

 

それはそれとしてムカつくので、1発デコピンさせてほしい。