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【まい投2020-39日目】無限の好奇心

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奇心はものごとを知りたいという欲求として知られている。
知ることは、自分の外界にあるものに着目して、自分の中に観念をつくる行為だ。

奇心を語った格言に「人はうまれながらにして知ることを欲する」というものがあるが、原文の「知る」にあたる単語は「見る」という意味である。
「見る」にも入りいろな意味があるが、遠景にあるものにピントを合わせる場合の「見る」がここでの意味に近い。

の意味での「見る」ことは、視界にとらえたものとの「距離をなくす」ことである。
私たちは、視界にあるたくさんのオブジェクトにかわるがわるピントを合わせ続けている。そのつど「あれは何だろう・・・。あ、バケツか。」「花が動いたな、虫が止まっているのか」などと考えて遠くにあるオブジェクトに気を取られ、逆に手元にあるものを見落としている。
その意味で、ピントを合わせている場所が自分に一番近い。ピントを合わせに行く「見る」という行為自体が「距離をなくすこと」と言えるのである。


は何かを得ることではなく、求めることに本質があると30日目の記事で言った。
そこから、「無限に目移りし」「求められる限り求め続ける」性質が見えてきた。
crowingspear.hatenablog.com

以上のことをまとめると、見る欲求である好奇心は、「距離をなくしたい欲」ということになる。
視界にとらえた物体Aにピントを合わせ、「バケツか」という一定の理解をしたところでAにこれ以上近づけなくなると、もはやAから欲を満たせなくなって、急激に興味を失う。そして次に焦点にとらえた物体Bに強くひきつけられる。
そうしてA→B→C・・・と目移りする。目移りは、Aがつまんないから仕方なしに、ではなく「距離を取り去りたい欲から来る衝動が視界に入ったものにとにかく向かわせる」イメージのほうが近い。
好奇心に囚われる限り、これを無限に繰り返すのである。

「欲」の記事でもふれたが、好奇心は欲である以上、原動力になりうる。
目移りするときのエネルギーはそれほどまでに強い。欲の中でも、特に好奇心が人類の叡智を拓げてきたことも否めない。
実際、視野が狭くなりがちな人にとって、好奇心は新たな発見の糸口にもなろう。
しかしひとたび囚われると、目的を達しても自分には「満たされなくなった無限の好奇心」が残る。

Twitterを開いて通知を確認したあと、タイムラインの1ツイートに目が行く。次のツイート、次のツイートに目が移り、いつの間にか数時間が経過してまう。
無限に流れてくるツイートは、距離を取り去るのに事欠かない。「へえ、こんなこと言ってるのね」「このイラストいいね」・・・と無限に目移りしていく。

限に目移りできる場所は、好奇心にとって最高の場所だ。欲を無限に満たせるからである。またそのような環境で欲は、人を興奮させ、容易に制御不能にする。
それを制御できるのはさらに大きな衝動か、さらに大きな苦しみしかない。
そうして好奇心は、「わたし」が疲労で擦り切れるか、もっとやりたいことが現れるまでタイムラインに私を囚えつづける。

の意味で、Twitterは行き場の失った好奇心の墓場になる。