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【まい投2020-44日目】意識高い系は視線高い系

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他の人が遊んでる時間にテスト勉強したり、日常的に資格勉強してたりすると、「意識高い系」と揶揄されることがある。

この指摘で注目されているのは、努力することによる「自己アピールをしたがる虚栄心」である。

揶揄の仕方としては「まじめちゃん」という言葉の解像度高い版という感じだ。

 

意識高い系というワード自体は20年前から使われていたが、ここ10年間で特に嘲笑の意味で用いられるようになっている。

この指摘はある意味で正当性があるように思う。

今遊ぶ行動は、今目の前の快を得るのに一番有効である。「今」勉強しても、快は「今」得られるわけではない。自己投資が結果になるのは数週間後のテストの点数・数年後の自分の立ち位置・数十年後の生活である。

 

「1時間後に死ぬとして、TOEICの点数が上がる勉強をするのか」と聞かれた時にやる人はぐっと減ると思う。1時間後に「成果」が現れないことが確定しているからだ。「成果」がないのに何かインプットしても無駄だ。おそらくこういう考えなのである。

 

時間軸上の視野が近いほど、自己投資という行為は「成果」が得られず、快も得られない厳しい修行のように見えてくるわけだ。

自己投資は、「今すぐは苦しいかもしれないが、長い目で見れば「快」が大きい」ことを信じて行われる。

結局、視野が低くて近くを見れているか、視線が高くて遠くを見ているかの違いなのである。

 

視野が高ければそれでいいかというとそうでもなくて、足元の石に躓いてしまうこともある。

「将来宇宙飛行士になったら」みたいな遠くの狭い範囲をだけ見続けると、今の現実を見失いがちである。視線が高くなっても、広くなるとは限らない。

遠い未来を見るだけではなく、今目の前も見てやっと「視野が広い」になることはておきたい。

 

「中身がない」意識高い系は少し趣が違う。虚栄心をモチベーションに「今だけ自己投資(のふり)をしておこう」と言ってしまえば、それは「今だけ」の視野である。視線は当然低い。これは意識低い系であって、遊びから快楽を得るか、承認されて快楽を得るかだけの違いなのである。