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【まい投2020-45日目】囚われることは救い

人は何かに囚われて生きている。
【まい投2020-34日目】囚われているのは「誰」? - ColumPus
インプットした情報を言葉に変換して思考している時点で、考えを言語に預けている。
性別・職業・役職みたいな肩書の側に立った考えを持つことも、偉大な存在を信仰することも、自分が見聞きしたナマの情報にフィルターを掛けている点は同じだ。
囚われることが本質なので、それ自身に善悪の色はないことには断りを入れておかなければならない。


crowingspear.hatenablog.com
先日「プラネタリウムの世界観」についての記事を書いた。私たちの視界は真四角の画角ではなく、透明半球の中みたいになっているイメージをもっている。

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透明半球

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囚われないことは、この透明半球の視界360°をすべて見ていることにあたる。すべて見ている以上、すべての情報を自分自身で判断しなければならない。パソコンをメモリ容量を超えて働かせいるようなことが往々にして起こる。こだわりなく見ることは、脳のメモリを圧迫するという意味で苦しいのである。

肩書や信仰みたいな自分を囚らえる存在は、半球内の視界を覆い隠してくれる。
覆い隠された範囲から入ってくる情報は、その「立場としての」フィルターがかかったものになり、考えることを減らしてくれる。
例えば、視界を半分預けられるくらいのフィルターがあったとする。「私の言うことを聞いておけばいい」状態だ。360°のうち180°を見なくて済むとなると、ぐっと楽になる。残り半分だけを自分で判断すればいいからだ。
その意味で肩書や信仰に囚われることは苦しみからの解放になる。

例えば、自分が観光地のお土産屋店員だとして、「Go To トラベルキャンペーン」が始まるというニュースを聞いたとしたら、お土産屋店員としてのフィルターからそのニュースを喜ばしいことの思うだろう。
何もフィルターを掛けずにこのニュースを聞くと、「医療従事者は・・・」「観光地の経済は・・・」みたいに考えることがたくさん出てくる。キャンペーンを出す側は立場に囚われない判断をすることが迫られているのである。
実際のところこのキャンペーンは沢山の要素の折り合いをつけて打ち出されたものだと思われるので、その大変さは想像に難くない。