【まい投2020-54日目】無関心と場の力
知らない人とエレベーターにいたとすると、自然と乗り合わせた人から目を逸らしてしまう。
同じように、電車の同じ車両にいる人をまじまじと眺めたりしない。
席が空いているとすぐ隣には座らないし、BOX席ならまず対角に席が埋まる。
このような振る舞いを「儀礼的無関心」と呼ぶようだ。
相手の存在自体は認識しているけれども、あなたには敵意とか関心はありませんよ〜という暗黙の意思表示をするのである。
物を落としたひとに声を掛けにくかったり、困っていそうな人を助けるのに足がすくんだらする感じもそうである。
むしろ、そんな場面でジロジロと見てくる人がいたとしたら無礼に感じるし、無意識に見つめていた人から不快な目を向けられるとハッとして頭を下げてしまったりする。
「儀礼的無関心」も、結局は個人個人の気持ちから出てくる行動なのだが、重力や静電気と同じ「場の力」のような働き方をしているように思う。
「場の力」だからといって、全体に均等に加わるわけではない。軽いものほど加わる重力が小さいように、「儀礼的無関心」が働きにくい者もいるだろう。
あれは何?とかお母さん、とか他を構わず喋るこどもは、儀礼的無関心が働きにくいと考えられる。一方で、子どもの「人見知り」というストレスの表れ方を見るに、「場の力」を感じることはあるように思う。
逆に儀礼的無関心が強く働く人もいるだろう。
普段はそんなことがないのに、ひとたび電車のような大勢の赤の他人の中に入ると「儀礼的無関心」によって心理的に大きく揺さぶられるような人だ。
これが「無関心」を守れていない人に向くと、「何あの人」と言わんばかりの目で睨み、苛立ち、咳払いをして咎めようとする。
その場合、無関心と言いながら、むしろ「関心を向けている」という意思表示をしていることになる。
「儀礼的無関心とはどんな場の力なのか」、「その力を受けやすい人はどんな人なのか」とか、「咎める行動までに人を駆り立てるものが何か」が気になった夜である。