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【まい投2020-58・59日目】「性格をなおす」について

「なおす」という言葉を自分なりに解釈するとこうなる。
「時や場所の基準点の状態に立ち戻らせる」

「壊れたものをなおす」なら、壊れる前の時間を基準にして、その状態に戻そうとすることを言うし、
「間違った文をなおす」と言葉にすれば、なおされる文とは隔たった場所に「正しい基準」があると示唆される。
また少しややこしいが、「先天性の病気をなおす」のはその人に基準があるわけではないが、客観的に知られた身体の正常な状態というものがあって、そこに近づけることを指すので「場所の基準点への立ち戻り」である。

そして日常的に使う「なおす」は、往々にして立ち戻る「時や場所」が好ましいときに使われる。
壊れたものはなおったほうが好ましいし、間違った文はなおされるべきと思われているのである。
そして病気はもちろん、なおったほうがいいことの方が多い。


さて、「性格をなおそうと決意した状態」をそれぞれの点から考えてみる。

時の基準
  • 過去と比べて今の自分が好ましくない性格で、それを過去に状態に「なおす」

こちらは「復元」と言えば通じやすいかもしれない。
過去の自分手引きにして、ふるまいを戻すことで比較的楽に達成できると思う。

場所の基準
  • 自分の外にある「好ましい」性格の基準に自分を「なおす」

「矯正」と言えば通りがいい。歯の矯正は昔の自分の歯並びではなく、生きるのに適した形を基準としてなおすのである。

きれいな歯並びは「かみ合わせの良さ」で用いる基準の正当性を測れるが、性格の場合、めざす基準が適しているのかすら知ることが難しい。
今の自分の性格がわからない人は、スタートもゴールもない迷路に迷い込んだ状態だ。
よく知られている通り、歯の矯正には痛みを伴う。いわんや性格の矯正である。

「性格をなおせよ」と三者Aがわたしに要求する場合、要求される側からすると以下のようになる。

時の基準

言われた人が過去に持っていた好ましい性格に戻ることを要求する。

場所の基準
  • 要求された側の過去にはない「好ましい性格像」になおすこと

要求する側からすれば「復元」を促すのが前者、「矯正」を促すのが後者ということになる。

復元に向かう先は「Aが見たわたしの過去の性格」であって、「私の過去の性格」ではない。
自分の外にあるものが基準という意味で、わたしにとっては「復元」ではなく「矯正」となる。
「Aが見た〜性格」にはわたしの情報全体のうちAが認識できる分の情報しか盛り込まれておらず、その情報をA自身のフィルターによって色付したものが「なおせ」という要求の判断材料になっているのである。

Aから「矯正」が促される場合は、自分自身で思うのと同じように外側の基準に向かうわけだから、わたしにとっても「矯正」である。

自分の世界観から作った理想の性格像があったとすると、これは自分の経験に根差した「地続きの理解」にある。
自己認識で得た今の自分の性格をスタート地点にして、この理想に近づくために痛みを背負うのが場所基準での「性格をなおすこと」である。


そこに、第三者Aから「宙に浮いた理想」への矯正を突き付けられたとして、
それを自分の理解の中に収めてから、「自分の目指すべき性格像」として置きなおすなら、今の自分とつなげて性格をなおす筋道を立てられるだろう。

一方で、納得なしにその理想を目指すことは、いままで地面から連綿と積み上げてきた自分の性格を雲で覆い隠し、雲に生える木から空を見るようなものだ。しかし往々にして雲に実体はないのである。


10/6 分類まで進めたので、59日目はこの記事に追記する形で個々の「性格をなおす」について掘ってみたい。
10/7 追記済み