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【まい投2020-55日目】人生複アカ理論

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Twitter複数アカウントを持っていると、アカウントによってツイートの文体が微妙に変っているのに気づく。フォロー欄も違うので、構成されるタイムラインも違ってくる。

 

ここから

  • タイムライン→世界
  • アカウント→人格

というビジュアライズをすると色々と考えを巡らせることができる。

 

自分は「世界」内の存在になる

ざっくり言えば、「タイムライン」はいつも私たちが世界と呼んでいる「大きな世界」に包含される「ちいさな世界」である。

フォローしているユーザーは人によって違い、結果タイムラインも別物になるので、似た界隈にいても違う世界であることに注意してほしい

アカウントを切り替えることは、「大きな世界」のセグメントである「ちいさな世界」どうしを行き来することに当たる。

そしてツイートは「その世界の内での人格としての自分」が行なっているのである。

 

そしてもともと人は世界から得た情報から独自の世界観をつくり、結果として人格を更新し続けている。

「リアル用SNS」や「趣味アカ」では見えている世界が当然異なるので、ログイン先ごとに別の人格がつくられていることになる。

別の人格なら文体が変わるのも頷けるし、興味関心も当然タイムラインに依存する。

興味関心に沿ってタイムラインを作るものなので、鶏と卵みたいな話ではある。

 

人格同士つながりはありそう

「アカウントごとに別の人格」と言ったが、個々の人格同士は分断されているわけではない。

つまり「別アカでログインしたとしても、他のアカウントでの文体のクセが表れてしまう」し、その逆も起こる。

当たり前のようで、「ログインしている世界が違う」「脳が違う」のに、その世界に没入しているはずの人格が別世界から言語を持ってきてしまっているのである。

 

現実にログイン

「現実世界の自分がツイートしてるんだから、リアルの自分を通してつながっているでしょ」という指摘はごもっともなのだが、

リアルの自分が「全人格を俯瞰する絶対的なメタ人格」というわけでもないと考えている。

「ログアウト」することは、現実世界に「ログイン」することだ。

この意味で、「現実世界」は「大きな世界」に包含されていると言える。

さらに「現実」の中でも、ツイッターの「界隈」のように別々の「アカウント」を人は持っている。

仕事場での自分と家に帰った時の自分で、その場にいる人や景色は違うし、当然振る舞いも変わる。

SNSが出現する以前から、人は複数の世界を持っており、同じ肉体を共有してはいるが、それぞれにログイン・ログアウトして生きていたのである。

 

メインアカウント

メタ人格の話に戻る。どこかの世界に没入して生きているかぎりで、ほかの世界を俯瞰する人格は、今いる世界を俯瞰できないので、絶対的なメタ人格になれない。

可能なのはあくまでも「相対的なメタ認知」である。「リアアカの自分から趣味アカの自分を見てツイートの仕方を考える」「現実世界で体験した出来事をオタクアカウントのフィルターをかけて発信する」のである。

 

だから「一つのアカウントが全人格の上位存在としてコンツェルンを形成する」という構造ではない。

「別々の世界-内に存在するアカウントが別のアカウントを俯瞰する」という仕方で人格同士がつながっているのだ。

だからどのアカウントもメインアカウントになり得るし、オンラインに没入した人格もメイン人格と言い張っていい。

 

 

この意味でバーチャルな存在はTwitterアカウントや役・キャラクターに限らず独立可能な一つの存在であり、好奇心旺盛な野次馬が求める『いわゆる「中の人」』は、「その世界」には存在しないのである。

 

この考えをもとに「VR空間」という空間の中での肉体を持つ存在について考えを巡らせてみたい。

VR世界」の中も「現実世界」と同じような「ちいさな世界」を考える余地もあるし、Vtuberに話を拡大させることもできそうである。