ColumPus

ColumbusのたまごColumnブログ

幾何学的原罪論

存在することによる罪とその原罪性(存在する限り在ること)についての非神格的論述

第I章 定義

定義1(主体と存在)

主体とは、作用能力を有する存在である。「主体が存在する」とは、「世界に対して作用し得る状態にある」ことと同値である。

定義2(作用)

作用とは、主体が、能動的または受動的に、他者および世界の状態を変化させることである。

定義3(倫理的負債)

倫理的負債(罪)とは、作用によって不可逆に生じた倫理的責任である。この負債は、負債を負う主体が存在する限り消滅せず、蓄積し続ける。

定義4(自責)

自責とは、主体が自己の倫理的負債を認識したことによって生じる苦痛である。

定義5(非存在)

非存在とは、作用の完全かつ永続的な停止状態、すなわち主体性の喪失を指す。

定義6(解放)

解放とは、自責が完全に消滅した状態を指す。

第II 章 公理

公理1(作用と負債)

他者および世界への作用は、倫理的負債を生じる。

公理2(自責の不可避性)

主体は、存在する限り自己の倫理的負債を認識せざるを得ず、その認識は自責を生じさせる。 (※認識能力の完全な喪失は主体性の喪失を意味する。

公理3(自責の消滅条件)

自責は、主体が作用を継続している限り消滅しない。 作用が完全かつ永続的に停止したとき、自責は必然的に完全に消滅する。

公理4(存在と作用の不可避性)

主体が存在する限り、他者または世界への作用は不可避に生じ続ける。

第III 章 定理および系

命題1(無作用と無生成)

作用が存在しないならば、新たな倫理的負債は生成しない。
証明 公理1 より、倫理的負債の唯一原因は作用である。
∴ 成立。 □

定理1(作用停止の十分性)

作用の完全かつ永続的な停止は、解放への十分条件である。
証明 主体の作用が完全かつ永続的に停止したと仮定する。 定義5(非存在)および公理4 の対偶(作用停止 ⇒ 非存在)により、作用の完全かつ永続的な停止は、主体性の喪失を意味する。 公理2 の注釈および定義5 より、主体性が喪失すれば、自己の倫理的負債を認識する能力も完全に失われる。 認識する主体が存在しないため、公理2 に基づく自責の発生条件が満たされなくなり、
自責は完全に消滅する。 定義6 より、自責が完全に消滅した状態は解放である。 ゆえに、作用の完全かつ永続的な停止 ⇒ 解放。
∴ 作用停止は解放の十分条件である。 □

【注釈1:罪の不可避性と存在の原罪性】

本定理の対偶、および公理1・2 の系として、「作用する主体は倫理的負債から逃れることができない」という命題が導かれる。主体が能力を有し、世界に位置を取る(存在する)限り、他者との摩擦は避けられない。すなわち、「行為の結果としての罪」だけでなく、「存在すること自体がすでに罪(負債)を生じさせている」という実存的な原罪性が、論理的に保証される。

定理2(作用停止の必要性)

解放されているならば、作用は停止している。
証明 主体が解放(自責の完全な消滅)されているにもかかわらず、なお作用していると仮定する。 作用しているならば、公理1 により倫理的負債が生じ、公理2 により主体はその負債を認識し、自責を生じる。これは「自責が完全に消滅している」という解放の定義(定義6)に矛盾する。ゆえに、主体は作用していない。
∴ 解放 ⇒ 作用停止。 □

注釈2(他者による救済の限界―裁きと赦し)

他者は、主体の倫理的負債に対して「裁き」または「赦し」を与えることができる。しかし、裁きは倫理的負債の存在を確認する作用にすぎず、赦しもまた主体と負債との関係を継続することを許容する作用であって、負債そのものを消滅させるものではない。さらに、公理2 により、主体は存在する限り自己の倫理的負債を認識し続け、自責を免れることはできない。したがって、他者の裁きや赦しは主体の自責を一時的に緩和し得るとしても、それを完全に消滅させることはできない。ゆえに、本体系において救済は他者から与えられるものではなく、作用の完全停止を経て自責が消滅することによってのみ成立する。

定理3(非存在の必要性)

解放のための必要十分条件は、主体の非存在である。 証明 定理1 および2 より、解放 ⇔ 作用停止。 公理4 より、主体が存在する限り作用は不可避(対偶:作用停止 ⇒ 非存在)。ゆえに、解放 ⇔ 非存在。 ∴ 成立。 □

【注釈3:関係性の完全な断絶】

主体が非存在に至ることは、すなわち世界および他者との「関係」が完全に、かつ永続的に断絶されることを意味する。他者の記憶や世界に刻まれた負債(痕跡)は残るかもしれないが、それを受け止め、苦痛する「器(主体)」が消失することで、倫理的摩擦の場そのものが消滅する。これが本体系における「救済」である。
系(救済の不可能性と非存在による達成) 倫理的負債は不可逆である(定義3)ため、負債そのものを消滅させることはできない。したがって、救済とは「負債の消滅」ではなく、「負債を負う主体の消滅(非存在)」によってのみ達成される。すなわち、存在することが罪に成り、その罪の自責から逃れる唯一の方法は、存在をやめることである。

人は蝶には勝てない

人は蝶には勝てない。

限られたスパンの中で、人は人に、世界に期待して、裏切られる。振れ幅の見積りを誤る。予測していた振れ幅など、蝶の羽ばたきに因ってかき消されてしまう。

 

長いスパンで見れば全てカオスになる世界。目の前の人間の機嫌も、自分の意思決定さえ、揺らぎに端を欲したカオスの萌芽だったり、その“すえ”だったりする。

人は可測性の高い予測のパッチワークで地形の全てを理解したがる。モノを投げたらあの辺に落ちるだろう、と同じ感覚で、「こう言えば、こう響く」と個別事象としてシンプリファイズしたくなるものだ。ゆえに、裏切られるまで、実際の世界がカオスであることを忘れてしまうのである。自分が合理的にコントロールできる時間範囲で他人が非合理的な判断をしたのだろうか?今目の前で理不尽に拒絶してきた人間は、すでに長く、合理的にその判断をせざるを得ない状況に置かれていたとは考えられないか?

 

台風の理不尽さも、抗えない説得力を持った人も。その瞬間では、最後の審判と同じようなどうしようもなさで、世界のオブジェクトとして、自分に迫ってくる。抗えないという一点において、台風も、人間も、同じ顔をしている。

カオスさは暴威であり、そして納得させてしまうという意味での、説得力だ。

 


逆に,説得力はカオスを纏っているということでもある。世界は理不尽であり、そして理不尽であるから、諦めという形で納得できる。直感に反していても、まあ、「この職人の経験には勝てないか」と腹落ちできる。それは、彼の目の前の手捌きに、ではない。その手捌きを得るまでに食ってきたカオスの総体そのものに対して説得させられているのである。

不確定性倫理 -社会契約説の脱構築化を手引きとして-

0. 序論:人間という存在への出発点

 


本論の出発点には、「高尚さ」だけではとらえきれない人間という存在がある。精神の中には、理性や意志だけでなく、怠惰や非合理、未整理な欲望といった要素が常に混在している。そして、それを含めて「愛おしさ」への眼差しが本論の根底にはある。


本稿は、自殺という現象について、それが個人にとって本来的に「罪」たりうるかを問い直す。制度的倫理・宗教・共同体的な価値判断ではなく、より原理的に、「自然としての精神」と「自由意志」から出発し、いかにしてその罪の構造が構成されているのか、あるいは構成不能なのかを探る。

 

 


 


1. 自殺の道徳性を問う意味とは何か

 


自殺はなぜ「悪」とされるのか。

多くの場合、それは共同体が維持されるための方便として説明される。宗教では労働力の損失=神や共同体への裏切りとされ、国家では生産性や国力維持のための“善き市民”の生存が前提とされる。しかし、こうした議論の土台にはすでに「人は生きるべきである」という教義的命題が据えられている。この「べき」は、個人の自由意志や本来性からくるものではなく、国家や宗教、経済という構造が演繹的に設定したゴールによって逆算されてきた帰結に過ぎない。

ゆえに、自殺が「悪」とされるのは、倫理や道徳の内発的な命題ではなく、構造的・管理的ドグマの産物である。

 


 


2. 自然としてのゆらぎと自殺の非罪性

 


現代において、決定論は量子レベルの「ゆらぎ」によって破られている。ブラウン運動や量子跳躍がそうであるように、一定以下のスケールでは未来は予測不能であり、因果は確率に置き換えられる。この自然科学的パラダイムに基づけば、人間の精神活動もまた物理的なゆらぎから発しており、絶対的な自律性(自由意志)は幻想であるか、あるいはそのゆらぎと連動しているものとみなされる。

自殺もまた、この自然の摂理に内在する「ゆらぎ」の一端として生じる現象であるならば、そもそもそれを道徳的・倫理的に罪に問うこと自体が誤ったアプローチである。

 


 


3.罪は誰のものなのか?

 


自殺における罪の帰属先が問題になる。仮に自由意志により自殺がなされたとしても、その時点で「自殺という行為を了解していた現存在」はもはや不在である。よって、それを責めることは、すでに抜け殻となった存在に対し後付けで罪を貼り付ける行為に過ぎない。

これはあたかも脱皮後の蛇の皮を見せしめとして吊るすようなものである。その行為が共同体にとって政治的・宗教的・経済的に「意味ある行為」であったとしても、それは本来的な倫理とは別の領域の論理に基づくものだ。

 


 


4. 生存権の再定義:生きることの自由と死ぬことの自由

 


伝統的な生存権は「他者から殺されない権利」として構成されてきた。

しかし、自殺を「ゆらぎ」の自然現象であり、かつ「多様性」として認めるとしたら、そこには「死ぬ自由」が内包されることになる。

これは「生きる義務」との矛盾を引き起こすが、そもそも「生きる義務」とは制度的ドグマであって、社会契約における原初的な自由とは相容れない。よって、生存権は本来的には「生を選ぶ自由」と「死を選ぶ自由」の両者を含んだ、より根源的な選択権として再定義されるべきである。これはまさに、死ぬこともまた生の可能性の一形態である、という思想的な踏み込みを必要とする。

 


 


5. ゆらぎが生む自由意志とその価値判断システム

 


ただし、「ゆらぎ」は短期的・微視的な現象であるため、自殺という複雑な行為に至るには、その上層構造である「価値判断システム」も同時に考慮されるべきである。

このシステムは、個人の成育歴、文化、共同体、記憶、言語、そして何よりその人固有の“選好”といった様々な要素によって構成される。ここにおいて初めて、量子ゆらぎがもたらしたインプットに対して、精神が「応答」する形での自由意志が現れる。

つまり、「自殺=自然」であることと、「自殺=判断された選択」であることは二律背反ではない。この二重性を認めることが、罪の問題からの脱構築へと繋がる。

 


 


6. 補遺:人間へのまなざしとしての倫理

 


この議論は、決して自殺を促すものではない。むしろ、人が「よく生きたい」と思ったときにこそ、為政者や知識人による演繹的な倫理構造に押し込まれず、「自由でありたい」と願う怠惰で未完成な人間をも愛するような視点が必要とされる。

哲学とは、論理によって世界を整理する行為であると同時に、論理に馴染まないものに対しても優しくあるべきである。そうでなければ、その論理は本来的な倫理に至らない。

 


問いには、それ自身に決まった答えが用意されているわけではない。問い自身の論点がどこにあるか?という問いを生んで、より細かく議論が進むけれども、細かくなった問いに対してもさらにその議論の論点がどこにあるか?という無限ループに入ってしまう。それを打ち破るのは、その問いの答えを、不確定性を孕んだ結論として「えいや」と決めつけてしまえる人間の価値判断である。「論理は問いを無限に分岐させるが、文明はその問いを“決断可能な形”に収束させてきた。アキレスが亀に永遠に追いつけないという論理的結論を傍らに、現実のアキレスは一歩を踏み出す。“えいや”という飛躍がなければ、文明を発展させる決断は生まれなかった。人間の営みは、不完全な価値判断をあえて下すことにおいて始まる。故に誤りもするし、故に個々の多様性が容認されるられるようになったのである。

 


その前提のもとでは、自殺をめぐる問いもまた、演繹的に答えが決まっているわけではなく、人間の存在が本質的に抱えてしまう不確定性、矛盾、分裂を出発点として生まれる。だからこそ、「どうすべきか」ではなく「どうあるのか」、という問いに転換しなければならない。

やべえやつは一生やべえやつでいてくれ

 昨今、SNSを開けば「やべえやつ」の話題で埋め尽くされている。奇行、迷惑行為、言動の一貫性のなさ——かつては身内の酒の席で語られる程度だった「やばさ」が、今や世界に向けて晒され、拡散され、嘲笑の対象になっている。本人がそれを望んでいるかどうかはともかく、われわれは今日も新たな「やべえやつ」を見つけては消費し、溜飲を下げる。道端で列に割り込むやつ、煽り運転をするやつ、飲食店で理不尽に店員を怒鳴るやつ——世の中には一定数、そういう人間がいる。そして彼らは、そう簡単には変わらない。

 


 やべえやつは、やべえままでいてくれる方が都合がいい。なぜなら、彼らが突然まともになったところで、観測者にとっては面白くもなんともないし、「あいつ、前はやばかったのに」と拍子抜けするだけだからだ。むしろ、彼らには最後までやべえままで突き進んでほしい。本人が気づかぬまま、社会の中でどんどん生きづらくなっていく——それこそが、観測するわれわれにとっての一種の娯楽であり、納得のいく結末だからだ。

 


 そして実際、やべえやつは大抵の場合、やべえままでいてしまう。最初はSNSで暴れたり、道端で割り込んだりするくらいだったものが、次第に範囲を広げ、家族や友人、職場にまで影響を及ぼしていく。親族とは何かしら揉めごとを起こすだろうし、友人からは距離を取られ、職場でも扱いに困る人間になる。それでも本人は、『自分は悪くない』と思い込みがちだ。結果として、気づかないうちに孤立し、どんどん生きづらくなっていく。われわれとしてはその顛末を静かに見守るだけで十分である。 「あんなに好き放題やっていたのに、気づけば誰も味方がいない」という状況は、やべえやつ自身が招いたものだ。周囲が矯正しようとしても、大抵の場合、労力の無駄に終わる。ならば、彼らがやらかし続けるのを眺め、やがて自滅していく様を観察するほうがよほど合理的だ。彼らが転落していく様は、時に滑稽であり、時に興味深い社会実験のようでもある。

 


 輪廻転生的な考え方を持ち出すなら、「やべえやつ」がやべえまま生き終えることこそが、彼らの業の完遂であり、同時に罰でもある。日本人には馴染みの深いこの考え方——生まれ持った性質や行動が、その人間の運命を決めるという発想を当てはめれば、「やばさ」を抱えたまま生きることが、その人間にとって最も自然な道だと言える。自らの「やばさ」に気づくことなく死んでいくこともあるだろうが、それはそれでいい。『やべえやつに「悪役」を押し付けて、安全な場所から見ていられる。』そう思い込んで、やべえやつがやべえままでいてくれることが、ひとつの現実として皮肉にも心を落ち着かせる理由となっているのだ。

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ハムレット症候群

 後が案外生きることよりも穏やかで、楽なものだとしたら、恐れる必要もないはずである。それを確認して帰って来れる人がいないものだから、本当のところどうかはわからないが。確かなことは、私たちが恐れているのは「死」という状態ではなく、その実「死ぬこと」という変化ということ。その恐れから、ただ生きている現状を維持し続けている、ということに気づくことができる。


「死ぬ」とは、エネルギーの遷移のようなもので、私たちがある意味で「死ぬ」という山を越えなければ、わざわざその先の境地に踏み入れることはできない。生きている状態と死んでいる状態に本質的な差がないと仮定したとすれば、私たちが生き続けてしまう理由は、「山を越えるのが面倒だから」ということになる。個々に生きる目的は数多あり、種々の生き方はあれど、結局それはその人生の枠内の話であって、死をも壇上に揚げ生きている理由を説明しようした時、ただ偶然生まれたからというもの以外に帰結のしようがない。

 


 もそも、人間を含む生命は「現状維持」することに存在の本質がある。生命を維持するために恒常性維持機能を備えており、身体は極端な温度変化を避け、代謝を調整しながら自らのバランスを保とうとする。限られた環境でしか生きられない身体を守るため、変化を抑え、安定を維持するこの本能的な仕組みこそ、私たちが現状維持を取り続けることに根拠を与えている。

 


 方で、集合体・共同体においてに限らず、個人においてまで現状維持を否定する向きがある。「変化しないことは衰退と同じ」などと言われ、前進することが求められる。しかし、恒常性維持の観点からすれば、個体にとって変化し続けることは積極的に死に向かう行為ではないか?もし「変化しなければ生き残れない」と言うのならば、それは個体の話ではなく、種や社会のレベルの話である。自然選択や適者生存といった理論は、集団の中での競争を説明するものであり、個体の生き方に対してではない。

 


 私たちは「いつかは来るが、今じゃないもの」として死から目を逸らし続けており、生き続けることに関しては大義などなく、ただ偶然生まれ落ちたついでに生き続けているだけなのだ。変化がもたらす可能性や未来の価値を語る理論がいくらあっても、個々の人生において、山を越えるという行為は、言ってしまえば面倒な一歩という以上に当てはまる説明がない。少なくとも、いま、わざわざ山を越える理由はないし、To beとNot to beの違いも大して重要じゃないのである。

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【第7回 #鳥オフ】鳥を″特别″にするには【RR-ワイルド・ヴァルチャー】

自分の鳥カードが″特別″であると示すオフ会、鳥オフ。先月11月初旬に4年ぶりに開催でき、第7回は新しく参加者された方、リピーターの方、運営含め全員楽しんで終われたと思います。運営として携わったオフ会がこんなに愛されて嬉しい限りです。

 

さて、鳥オフが始まって以来6年、私Pmanは《RR-ワイルド・ヴァルチャー》を鳥カードとして選んで参加しています。カードプールの変遷とともに、手を変え品を変え色々な《RR-ワイルド・ヴァルチャー》のデッキを組んできました。好きという感覚を超え、ある意味もう執着とか呪いとかその域に達しているのかもしれませんね(笑)

 

恒例となった、鳥オフ独自の対戦相手への評価システムですが、運営の私も評価していただいていました。(ランキングには参加していません)

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嬉しいことに、18点満点中16.56という高評価をいただき、運営内で1位を取ることができました。俺の鳥が最強や!

 

さて、ブログ記事リレー企画として、鳥オフ運営による鳥デッキの構築方法の提案・例示をテーマに記事を作成しました。これまでの【RR-ワイルド・ヴァルチャー】を振り返って思うことを下に記しましたので、ゆっくり読んでみてください。

鳥オフ前にデッキレシピ例示記事も書いておりますので、そちら併せて見ていただけると嬉しいです。

crowingspear.hatenablog.com

 

 

鳥を″特别″にするには

 

客観視を獲得するともに主観が迷子になるのが青年期であり、人は青年期、そしてモラトリアムにかけてアイデンティティの獲得を目指すものである。こういった時間に遊戯王というゲームしてきた身にとって、アイデンティティの獲得という発達課題への挑戦の苦しみは、デッキ構築にも現れていた。

 

鳥オフというオフ会でデッキ構築をするにあたって、たとえば《RR-ワイルド・ヴァルチャー》であれば、《RR-ワイルド・ヴァルチャー》は誰なんだ?から始めるだろう。そして《RR-ワイルド・ヴァルチャー》にしかできないことは何か。《RR-ワイルド・ヴァルチャー》でなければならない理由は何か。《RR・ワイルド・ヴァルチャー》が″特別″になれるシチュエーションを探して、悪戦苦闘が始まる。

 

面接のための自己分析が苦しいのとまるっきり同じだ。恋人にとって俺でなければいけない理由。御社にとって自分が必要な理由。俺は何のために生きて、どう死ぬのか。人生の目的は。勉強で身につけた客観視を駆使し、この世界で俺が″特別″であるという証明問題を解かなければならないという強迫観念に駆られてしまう。

 

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《RR-ワイルド・ヴァルチャー》を中心にして、相性の良い《ダークネス・シムルグ》《闇黒の魔王ディアボロス》がくっついてきて、それを揃えるためのカード、相性の良いカードが全てのカードプールから候補として挙がってくる。テキストではない。カード達の相関図そのものこそが、《RR-ワイルド・ヴァルチャー》を表す全てである。しかしながら、デッキの中にその全てを内包することはできない。ただ一側面に限定して《RR-ワイルド・ヴァルチャー》の相関図を切り取る作業である。そこに、「俺にとっての」《RR-ワイルド・ヴァルチャー》はこうなんだという観念が、デッキとして形に現れる。

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自分という存在の″形″がレーダーチャートのように確定していく青年期に身につけられる言葉が「俺にとって」という枕言葉である。自分が全世界に対して唯一性を帯びる必要はないという免罪符となる反面、自分の価値観や能力が白日に晒されてしまう恐ろしさとも戦わなければならない。まるでマインスイーパを1マスずつ開けるときのように、ハラハラした気持ちで、「俺にとって」の形を探っていくことになる。その形は、一生懸命身につけた客観視にとって何の意味も持たない。

 

「俺にとって」という唯一性を捨てる免罪符を使用した以上、全世界に対し唯一でなければならなかったデッキは、唯一でなくなってしまう。「人それぞれ」という凡庸な価値観で片付けられてしまう恐ろしさからそのデッキを認めてあげられるのは、迷子になっていた主観しかいない。世界が《RR-ワイルド・ヴァルチャー》を愛さなくても、俺が愛していればいい。

 

この世界で自分の好き嫌いを判断できるのは自分しかいない。価値観の主体を自分に取り戻せたなら、「俺にとっての」という枕詞を使う必要がそもそもない。唯一性を求めないことが罪でなくなった今、免罪符も意味をなさなくなっているはずだ。世界にとって自分が特別であると証明するのが目的ではない。幸にも不幸にも、俺にとって自分は特別でしかあり得ない。

 

つまり、鳥カードが特別になるのはデッキ構築によってではなく、デュエルによってでもない。主観で″鳥″を選んだ瞬間である。あとは、俺にとって見せたいカードの一側面とは?を考えてやるだけ。俺にとっての″特別″のイメージを自分に対して示したものが鳥デッキとなる。

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第七回 #鳥オフ 【サンプルデッキ紹介】 【RR-ワイルド・ヴァルチャー 2.5】

鳥オフ という遊戯王カジュアルオフをご存知でしょうか。

参加者全員が「鳥デッキ」のみを携えて戦い、参加者の投票により最も輝いていた「鳥カード」を決めるという異色のフリー対戦オフです。

イベント概要はこちら。募集が始まってはや1ヶ月、満員御礼につき増枠中です。現時点であと3枠!

twipla.jp

 

申し遅れました。私はPmanという者です。

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過去《RR-ワイルド・ヴァルチャー》を鳥カードに据えて参加していました。今回の鳥オフには参加できませんが、運営という形で携わっております。

 

さて、参加者の皆様におかれましては、鳥カードの選定、「鳥デッキ」の構築に勤しまれていることかと存じます。鳥カードの選定や基本的なデッキ構築はもちろんだとは思いますが、鳥オフ公式へ「スピードやパワーライン」に悩む声が寄せられていました。

Xの「#鳥オフ」ハッシュタグから過去レシピを参照してもらい雰囲気を掴んでもらえれば一番ですが、4年越しの開催ということで、出来ることはかなり増えております。自ずとカードパワーも上昇しているため、実際のところ会場で飛び交うカードがどうなるかイメージしづらいです。(運営も想像しきれない所があります)

 

そこで、「私がもし参加できたらこんなレシピを持っていくぞー」というサンプルをこちらの記事に貼り付けますので、参考にしていただければ幸いです。(参加できず悔しいですが…!)

先に断っておきますが、鳥オフは勝ち負けが最終結果の良し悪しに直結するオフ会ではないです。このレシピをメタってもあんまり意味ないぞ!

 

RR-ワイルド・ヴァルチャー

さて、《RR-ワイルド・ヴァルチャー》というカードをご存知でしょうか。

「RR-ワイルド・ヴァルチャー」

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効果モンスター

星6 /闇/鳥獣/攻 1600 /守 2000 
⑴:このカードが召喚・特殊召喚に成功したターンの自分メインフェイズにこのカードをリリースして発動できる。レベルの合計が6になるように、自分の手札・墓地から「RR」モンスター2体を選んで特殊召喚する。

 

唯一のレベル6 RRモンスターで、自身をリリースしてモンスターを2体展開する効果を持っています。人呼んで「9期の《インフェルニティ・ガン》」です。

このカードの特徴はアドバンス召喚できる闇属性」「自信をリリースできる闇属性」という2つの性質を併せ持つことです。

 

 

つまり、ダークネス・シムルグ》《闇黒の魔王 ディアボロ》両方のトリガーになれるのです。さらに、RRを2体出力するため、《RR-ネスト》のサルベージ効果により自身を手札に戻せます。

 

つまり、《RR-ワイルド・ヴァルチャー無限シムルグディアボロス+レベル3×2出力エンジンと化します。

 

「ランク5以上のRR Xモンスターに頼らず、メインモンスターを中心に攻め込んでいくRRの異端感」、そして「ワイルド・ヴァルチャーが全ての起点になる所」が、このデッキを使う面白さだと思っています。

3年前に更新したデッキレシピ記事は、上記のギミックをメインに据えています↓

crowingspear.hatenablog.com

 

デッキレシピ【RR-ワイルド・ヴァルチャー2.5】

 

 

上図が現在のデッキレシピです。

2.0のレシピに対し下記2点のアップデートを施しました。

「絶神鳥シムルグ」で安定性向上

もともと《王神鳥シムルグ》《ダークネス・シムルグ》を使用しデッキの終着点を担っていた「シムルグ」ですが、《絶神鳥シムルグ》がめちゃくちゃ強いです。RRと相互に矢印が伸びており、序盤は《ダークネス・シムルグ》出力補助、中盤は自身による手数確保、終盤は《烈風の覇者 シムルグ》による盤面出力UPと、ゲームを通して隙なく安定性を底上げしてくれます。

 

 

「ビーステッド」でディアボロスへアクセス+トリガー用意

2.0のレシピにおいて、デッキにいる《闇黒の魔王 ディアボロ》へは、最序盤の《永遠の淑女 ベアトリーチェからしかアクセスできなかったのですが、《深淵の獣マグナムート》のいる「ビーステッド」を採用することでこの困難を緩和しています。《深淵の獣ルベリオン》《深淵の獣バルドレイク》《烙印の獣》と闇属性リリースのトリガーにも事欠かないので、《RR-ワイルド・ヴァルチャー》への負担軽減も図れました。「ビーステッド」自体の継戦力で、モンスターを一掃されても「ビーステッド」1体を浮上させ、《RR-ワイルド・ヴァルチャー》のリリース要員確保、なんてこともできるのでとても心強いです。

 

そのほかにも下記2点のうまみがあります。

  • RR-ネスト》が破壊された場合にサルベージ効果を発動した《RR-ヒール・イーグル》を《復烙印》で戻せる
  • 深淵の獣ルベリオン》《闇黒の魔王 ディアボロ》でのランク8素出し
  • チューナー確保から《PSYフレームロード・Ω》《RR-レディネス》コンボを狙える

 

デッキの弱点

このデッキのどうしても拭えない弱点は以下2点です。

  • 最序盤に《RUM-ソウル・シェイブ・フォース》でLPを半分にしてしまう
  • 打点3000を超えるモンスターへの対処法が少ない

以前からの課題事項で、高打点モンスターやデバフ・バーンによる突然の詰み発生して困っていました。一応EXデッキに頼って対処するプランを用意しました。

前者:「Ωレディネス」の再採用

後者:「プライム・フォトン」系、《RR-デビル・イーグル》

 

鳥オフ参加者各位

私自身、長い時間《RR-ワイルド・ヴァルチャー》について考えてきました。カード効果の性質上、最終盤面に残って殴るようなモンスターではないのですが、その分コイツを乱舞させられるデッキを組めたと思っています。

パワーラインについて

あくまでも《RR-ワイルド・ヴァルチャー》が一番活躍することを基準にしていますので、スピード・パワーライン・妨害の程度は良くも悪くもコイツの性能で頭打ちになります。「ワイルド・ヴァルチャー」の活躍を魅せる目的でデッキを組んでいるので、デッキが位置するパワーラインが制限されてしまうのが実情です。(不器用なヤツでごめんなさい)

クセのある鳥が沢山出るわけですから、参加者各々がそれぞれの鳥カードに最適化したデッキを組んできた場合、デッキのスピードが合わない交通事故的な対戦をゼロにすることはできません。

その分いろんな方と対戦して試行回数を重ねれば、鳥カードが活躍する機会を増やしてあげられると思います。

 

さいごに

上記しましたが、鳥オフでは勝ち負けが結果の良し悪しに直結しません。

 

参加者の皆様におかれましては、己の「鳥カード」を魅せるデッキを組み上げ、対戦において遺憾なく発揮して欲しいです。加えて対戦結果にとらわれず、相手の鳥デッキの面白いところを見つけていただき、鳥オフを存分に楽しんでいただけるよう祈っています!

 

2次会も参加してね

「久々にトチ狂った遊戯王、したいな…」

  ↓
【第七回】鳥オフ【遊戯王カジュアルオフ】の参加を決意する
  ↓
鳥カードと三日三晩向き合う
  ↓
当日、数多の鳥達と鎬を削る、闘争の戦禍に身を投じる
  ↓
身体は鶏肉を求める
  ↓
鳥オフ二次会が開催される

 

ということで、鳥オフ2次会恒例となった、鳥を食べる会。鳥デッキについて語りあい、存分に鳥を食らってください!

参加表明をお待ちしています!

https://twipla.jp/events/577131:鳥オフ2次会リンク