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ColumbusのたまごColumnブログ

【まい投2020-47日目】遊びで趣味やってるわけじゃない

「遊び」という言葉は、「空間的なゆとり」という意味を持っている。

よく知っている方の「遊び」は、本業に対して持つ時間的・精神的なゆとりというイメージがつきまとう。

 

結局「遊び」が(仕事を)しない、という否定で作られたイメージの言葉である以上、それ自体が本業に配慮をして初めて成り立つ動詞である。

 

似たタイミングで使われる言葉をあげてみよう。

娯楽は慰みをして楽しむこと。リラックスは緊張から緩和すること。余暇は仕事の間の可処分時間。フリータイムのフリーは「〜から離れた」という意味である。休みは活動しない時間のこと。

どれもこれも没頭できていない。「長く生きるためには仕事が第一やるべきことだろ」と言われてしまえば「ぐぬぬ・・・」と唸ってしまうのだが、「仕事のために自由時間を過ごしている」みたいなのは癪にさわる。俺は仕事のためじゃない、やりたくて趣味をやってるんだ。「遊び」だけで趣味をやってるんじゃ断じてない。

 

 

趣味・・・🤔

 

趣味は「個人の好み」という意味だ。そこに「本業」みたいな他のものはなく、没頭してる感がある。

確かに趣味は、遊びのようなリラックス効果・ストレス発散が期待できるけれども、第一義的には趣味は遊びではない。

 

余暇の過ごし方は簡単に探せるが、無趣味な人にとって趣味を探すことはやはり難しいのである。特に趣味を「遊び」と混同している人にとっては。

【まい投2020-46日目】はぁ・・・まだ物理法則なんてものに囚われてるんですか・・・

世界の理解の仕方は人それぞれ微妙に違う。多様性が認められ始め、その感覚が広がってきた。

その中で、「はぁ・・・まだ物理法則なんてものに囚われてるんですか・・・人によって物理法則は違うんですよ!?(意訳)」という言説を目にした(ツイッターで)(どのツイートが忘れた)

 

自分も「人それぞれ見ているものが違う」という、一見似た意見を宣っている。その中でこれを見て、あまりにもラディカルな意見に衝撃を受けたので、自分なりに「何が人それぞれなのか」考えてみたい。

 

ここでいう物理法則とは、科学によって見つけられた法則か、法則を見出せる世界そのもののことだろう。

 

科学は、世界を見る「方法」の一つであって、その意味では宗教や個人の世界観と並列する。

よく勘違いされることだが、第一義的には、科学が世界の正しい姿なのではない。世界を理解するための道筋だ。扱うテーマが自然だったり社会だったりはするが、科学というアプローチの仕方なのは変わらない。

科学は、誰にとっても正しいと思われる素朴な(ア・プリオリな)ことからスタートする。暗に客観的な世界を想定している。

そこに「100の精度ではないけど」観測や事実の積み重ねで根拠付けをして、「多少の揺らぎは生まれるけど」数式とか言葉を紡ぎ、科学が成り立っている。

確かにまだまだフロンティアはあるし、より新しい価値観によって更新されたりはにする、未完成な翻訳機のようなものだ。

 

未完成といっても、観測の精度も、よく知られたテーマでは99.9999%まで高められていたりするし、より適切な数式や言葉で理論が書き直され続けている。

もし仮に、低く見積もって70%くらいの観測精度・10%の言葉のゆらぎで表された自然法則があったとしても、63%はだれにとっても正しいのである。

残りの37%が「人それぞれ」なのかというと、それも違う。

あくまでもどこまで世界の真の姿に近づけるかという割合だ。観測精度が向上すれば「人それぞれ」の割合が減るというのはおかしい。

 

「人それぞれ」が可能なのはせいぜい「世界そのものについての見え方」か「科学に対する考え方」くらいであって、「客観的な世界そのもの」や「科学という方法で言い表された法則そのもの」では断じてない。

「わたしだけ重力が地面から空に向いてるんですよ」みたいな、客観的な世界に介入する「人それぞれ」だとしたら、自分の物理法則で思うがままに飛び回る人間が世界中にいることだろう。

 

一個人がもつ自分の世界観と、自分以外にある客観的な世界観を混同していることがこの誤謬のスタートに思える。

その人の物理法則が人類の叡智の63%を上回れるなら、信じてみたくもなるが。

 

 

 

【まい投2020-45日目】囚われることは救い

人は何かに囚われて生きている。
【まい投2020-34日目】囚われているのは「誰」? - ColumPus
インプットした情報を言葉に変換して思考している時点で、考えを言語に預けている。
性別・職業・役職みたいな肩書の側に立った考えを持つことも、偉大な存在を信仰することも、自分が見聞きしたナマの情報にフィルターを掛けている点は同じだ。
囚われることが本質なので、それ自身に善悪の色はないことには断りを入れておかなければならない。


crowingspear.hatenablog.com
先日「プラネタリウムの世界観」についての記事を書いた。私たちの視界は真四角の画角ではなく、透明半球の中みたいになっているイメージをもっている。

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透明半球

透明半球儀セット (10セット組) | スマートスクール(スマスク)


囚われないことは、この透明半球の視界360°をすべて見ていることにあたる。すべて見ている以上、すべての情報を自分自身で判断しなければならない。パソコンをメモリ容量を超えて働かせいるようなことが往々にして起こる。こだわりなく見ることは、脳のメモリを圧迫するという意味で苦しいのである。

肩書や信仰みたいな自分を囚らえる存在は、半球内の視界を覆い隠してくれる。
覆い隠された範囲から入ってくる情報は、その「立場としての」フィルターがかかったものになり、考えることを減らしてくれる。
例えば、視界を半分預けられるくらいのフィルターがあったとする。「私の言うことを聞いておけばいい」状態だ。360°のうち180°を見なくて済むとなると、ぐっと楽になる。残り半分だけを自分で判断すればいいからだ。
その意味で肩書や信仰に囚われることは苦しみからの解放になる。

例えば、自分が観光地のお土産屋店員だとして、「Go To トラベルキャンペーン」が始まるというニュースを聞いたとしたら、お土産屋店員としてのフィルターからそのニュースを喜ばしいことの思うだろう。
何もフィルターを掛けずにこのニュースを聞くと、「医療従事者は・・・」「観光地の経済は・・・」みたいに考えることがたくさん出てくる。キャンペーンを出す側は立場に囚われない判断をすることが迫られているのである。
実際のところこのキャンペーンは沢山の要素の折り合いをつけて打ち出されたものだと思われるので、その大変さは想像に難くない。

【まい投2020-44日目】意識高い系は視線高い系

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他の人が遊んでる時間にテスト勉強したり、日常的に資格勉強してたりすると、「意識高い系」と揶揄されることがある。

この指摘で注目されているのは、努力することによる「自己アピールをしたがる虚栄心」である。

揶揄の仕方としては「まじめちゃん」という言葉の解像度高い版という感じだ。

 

意識高い系というワード自体は20年前から使われていたが、ここ10年間で特に嘲笑の意味で用いられるようになっている。

この指摘はある意味で正当性があるように思う。

今遊ぶ行動は、今目の前の快を得るのに一番有効である。「今」勉強しても、快は「今」得られるわけではない。自己投資が結果になるのは数週間後のテストの点数・数年後の自分の立ち位置・数十年後の生活である。

 

「1時間後に死ぬとして、TOEICの点数が上がる勉強をするのか」と聞かれた時にやる人はぐっと減ると思う。1時間後に「成果」が現れないことが確定しているからだ。「成果」がないのに何かインプットしても無駄だ。おそらくこういう考えなのである。

 

時間軸上の視野が近いほど、自己投資という行為は「成果」が得られず、快も得られない厳しい修行のように見えてくるわけだ。

自己投資は、「今すぐは苦しいかもしれないが、長い目で見れば「快」が大きい」ことを信じて行われる。

結局、視野が低くて近くを見れているか、視線が高くて遠くを見ているかの違いなのである。

 

視野が高ければそれでいいかというとそうでもなくて、足元の石に躓いてしまうこともある。

「将来宇宙飛行士になったら」みたいな遠くの狭い範囲をだけ見続けると、今の現実を見失いがちである。視線が高くなっても、広くなるとは限らない。

遠い未来を見るだけではなく、今目の前も見てやっと「視野が広い」になることはておきたい。

 

「中身がない」意識高い系は少し趣が違う。虚栄心をモチベーションに「今だけ自己投資(のふり)をしておこう」と言ってしまえば、それは「今だけ」の視野である。視線は当然低い。これは意識低い系であって、遊びから快楽を得るか、承認されて快楽を得るかだけの違いなのである。

【まい投2020-42日目】自分の内側・外側

服が後ろに引っ張られたとき、その抵抗を肌で感じるのは前側だが、なぜか「後ろに誰かがいる」と確かに認識できる。

身体の外側にあるはずの杖で、地面の形を見ながら歩けるのも不思議だ。自分が「外側に伸びている」感じがする。

 

身体の内側だからといって、自分の領域というわけでもないようだ。

食道を通る食べ物の感触を感じられたり(厳密には食道の中は体外だが)、痛みを感じる臓器がどこかわかったりする。

自分の中と外の境界は、空間的に言えば入り混じっていそうだ。

 

自分の領域がどこからどこまでなのか。

そう問う限り、その真偽は置くとして、「自分の内側と外側がある」と勝手に前提している自分にも気づく。

 

 

【まい投2020-41日目】じゃあどうすればいいの?

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「これやっといて」と指示されたことを遂行して「そうじゃない」と言われると、「じゃあどうすればいいんだよ」という気持ちになる。

 

冷静になればわかることだが、「やってほしいこと」が「遂行結果」になるまで、何重ものフィルターがかかってしまうのが原因だ。

 

「やってほしいこと」→(言語化された指示)→(言葉の聞き取り)→(聞き取った言葉の解釈)→(解釈をもとにした遂行)→「遂行結果」の流れなので、指示する人から指示を受ける人の間でフィルターがかかる場所が4カ所もある。

 

その全部を90%で遂行できたとしても、全体としては66%程度の精度しか出ない。

指示した人の許容範囲が「70%以上」だったりすると、「思ったのと違うな」となるのである。

 

そして100%の精度が出せることは決してない。「どうすればいい」とは「(あなたの期待100%どおりにするには)どうすればいい」なので、言葉通り捉える限り100%はあり得ない。

目指すのは100%ではなく、「許容範囲内」であるほうが健全だ。

 

それでもあえて100%を出したいなら、150%くらいを想定すればいい。(150÷0.66≒100なので)