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ColumbusのたまごColumnブログ

ブログを書く欲求の方向について

言語の存在意義は、価値観を広げることである。言わずもがな、ブログも言語を使って価値観を広げることができるツールである。

 

さて、価値観を他人へと拡げるためには、無為に拡散させてしまうのでは、効果が薄い。価値観を拡げたい人に必要な情報を渡してあげることが必要だ。

「こんなゲーム仲間は嫌だ」というあるあるネタは、「ゲームをする人」に向けて発信される。

すると、「ゲームしない人なら普通の価値観だよ」などと感想を述べる人に対してどうしてもコンテクスト(文脈)を持った情報になってしまう。コンテクストは、その説明がない限り、言語から価値観を汲み取る障壁となる厄介者だ。

論を立てて「説明」をする場合は一般に認められた修辞法を使って情報の純度を高めることで極力コンテクストを排除するのだが、それでも「文章が長い・言葉が固い・使われている言語が読めない・書いた人間にエソスがないなどによって読みたくなくなる」というコンテクストを排除することはできない。「○○論」という一般に流布するための言語を用いていても、私たちが言語を使う以上、誰かに対して障壁を立ててしまうのは避けられないのである。

 

では、あえて言語に高いコンテクストを与えるとどうなるか。障壁によって価値観を共有できない範囲の他人が増える。ラップに馴染みがない人にはラップで書かれた言葉はハイコンテクストな言葉であり、読者側がその価値観を共有するためには障壁を乗り越える必要がある。つまり言語によって読者・受け手側を「分断」することになるのである。

 

分断は障壁外にいる他人からの断絶ではあるが、逆に障壁内の人間との連帯を際立たせる役割を持ち、何の罪悪感もなく日常的に使われる。多かれ少なかれ、コンテクストを伴った言葉を使う限り、私たちも無意識に他人を分断しているのは確かである。例えば、「『草』と言うこと」は「それが笑いを表すとわからない他人」を断絶する目的よりも、「草」がわかる他人との価値観共有が主である。

 

どうしても他人への価値観共有したい人間は、ローコンテクストの言語を用いる必要がある。しかし、ローコンテクストの「誰でもわかるあるある」文章は、「誰でも笑えるお笑いのリズムネタ」みたいなもので、拡散される空間的拡がりが大きくとも一瞬で収縮してしまう。

ハイコンテクスト化を進めた場合は逆で、空間的に拡がらない一方時間的に長く意味を持たせることができる。

ファミレスで他人の家族が「あの時のタカシ、めちゃくちゃ面白かったよな〜」「いやあれはアイツの揚げパンのせいで・・!」と言っていても他の席に座る客には伝わらないし、店の外にいる人間にこの部分だけ音声を聞かせたなら全く意味がわからない、家族だけに閉じたハイコンテクストな言語である。しかし当然、その家族にとっては時間的広がりをもった重要な言語でもある。

 

ハイコンテクストな言語の究極系は、「他人やよそ様に伝わらない」である。この場合、言葉は「価値観を広げる」存在意義を失うであろうか。否。空間的な拡がりを失った一方、時間的な広がりを得るからである。

現実問題として、人間は思考をするために言語を手引きに使用している。自分や自分達の価値観を深化させ、個別具体のエピソードを再構築することで未来の自分へ価値観を広げてゆくために、もはや他人へ言語の障壁を課すことは問題ではない。どちらに向かって・あるいはどれくらいの比率で綴られた言語なのかが問題なのだ。

 

ブログは言語を使って他人や将来へ価値観を広げることのできるツールである。

言語の存在意義はやはり、価値観を広げることなのであり、そしてその欲求が他人に向くとは限らないのは昔から明白なのである。