想いが全てであることについて
怒りとは、6秒しか続かない感情であるという。
また、論理は道筋を照らす道具である。その道具を扱うのは人間であり、人間の行動を指針するのはその者が持つ想いである。
逆から辿れば、想いが結論を指針し、人間はその結論を得るために行動する。
嬉しい。ありがとうが言いたい。だから口を動かす。
むかつく。相手を打ち負かしたい。だから拳を振るう。
シャカパチや《クシャトリラ・フェンリル》に対して冷静そうに論理をしたためていようと、抱いた怒りに突き動かされている限り、指針立てに6秒も使えていないことになる。
むかつく。非難したい。だからブログにしたためる。
ここで論理は、「したためる」ための道具、手段として使われているだけであり、結論ありきの超短視眼的安易な誤謬に気づかず、指針立てに耳を傾けるだけで、論理の危機に言い訳ができない日々となってしまう。怒りに囚われるのが悪かどうかは別にいいたいことではないんだけど。
この「想い→論理」のフローに「止揚」というプロセスを挟んでみる。
生きている限り、一つの想いに囚われ続けることは稀だ。昔言ってた理想論を幼く感じたり、それを幼く思っていた自分をまた青く感じたりするように。
止揚とは、自分の思考Aを一度止めてBという思考で否定し、その否定を乗り越えることでA+にブラッシュアップさせるプロセスのことを言う。
自分が考えていた想いをメタで見つめたときに、「でも」という洞察ができないか。そしてその「でも」に対してカウンターをすることで想いが1段階スパイラルアップする。
「このコンボ、最強じゃん!」という激情からデッキを考え始めた後、時間を置くと醒めた目で見えてしまうことがある。チャンスである。
その醒めた目に対して自分なりにカウンターができたときに、気に入るデッキが完成するのではないか。頭の中でケチをつけてデッキを嫌いにさせてくる、紛い物の理性にカウンターできるようになったのだから。
自分が何の想いに振り回されてどの結論を得るために考えているのかを意識する。
止揚を、しよう。(結論)