0. 序論:人間という存在への出発点
本論の出発点には、「高尚さ」だけではとらえきれない人間という存在がある。精神の中には、理性や意志だけでなく、怠惰や非合理、未整理な欲望といった要素が常に混在している。そして、それを含めて「愛おしさ」への眼差しが本論の根底にはある。
本稿は、自殺という現象について、それが個人にとって本来的に「罪」たりうるかを問い直す。制度的倫理・宗教・共同体的な価値判断ではなく、より原理的に、「自然としての精神」と「自由意志」から出発し、いかにしてその罪の構造が構成されているのか、あるいは構成不能なのかを探る。
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1. 自殺の道徳性を問う意味とは何か
自殺はなぜ「悪」とされるのか。
多くの場合、それは共同体が維持されるための方便として説明される。宗教では労働力の損失=神や共同体への裏切りとされ、国家では生産性や国力維持のための“善き市民”の生存が前提とされる。しかし、こうした議論の土台にはすでに「人は生きるべきである」という教義的命題が据えられている。この「べき」は、個人の自由意志や本来性からくるものではなく、国家や宗教、経済という構造が演繹的に設定したゴールによって逆算されてきた帰結に過ぎない。
ゆえに、自殺が「悪」とされるのは、倫理や道徳の内発的な命題ではなく、構造的・管理的ドグマの産物である。
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2. 自然としてのゆらぎと自殺の非罪性
現代において、決定論は量子レベルの「ゆらぎ」によって破られている。ブラウン運動や量子跳躍がそうであるように、一定以下のスケールでは未来は予測不能であり、因果は確率に置き換えられる。この自然科学的パラダイムに基づけば、人間の精神活動もまた物理的なゆらぎから発しており、絶対的な自律性(自由意志)は幻想であるか、あるいはそのゆらぎと連動しているものとみなされる。
自殺もまた、この自然の摂理に内在する「ゆらぎ」の一端として生じる現象であるならば、そもそもそれを道徳的・倫理的に罪に問うこと自体が誤ったアプローチである。
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3.罪は誰のものなのか?
自殺における罪の帰属先が問題になる。仮に自由意志により自殺がなされたとしても、その時点で「自殺という行為を了解していた現存在」はもはや不在である。よって、それを責めることは、すでに抜け殻となった存在に対し後付けで罪を貼り付ける行為に過ぎない。
これはあたかも脱皮後の蛇の皮を見せしめとして吊るすようなものである。その行為が共同体にとって政治的・宗教的・経済的に「意味ある行為」であったとしても、それは本来的な倫理とは別の領域の論理に基づくものだ。
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4. 生存権の再定義:生きることの自由と死ぬことの自由
伝統的な生存権は「他者から殺されない権利」として構成されてきた。
しかし、自殺を「ゆらぎ」の自然現象であり、かつ「多様性」として認めるとしたら、そこには「死ぬ自由」が内包されることになる。
これは「生きる義務」との矛盾を引き起こすが、そもそも「生きる義務」とは制度的ドグマであって、社会契約における原初的な自由とは相容れない。よって、生存権は本来的には「生を選ぶ自由」と「死を選ぶ自由」の両者を含んだ、より根源的な選択権として再定義されるべきである。これはまさに、死ぬこともまた生の可能性の一形態である、という思想的な踏み込みを必要とする。
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5. ゆらぎが生む自由意志とその価値判断システム
ただし、「ゆらぎ」は短期的・微視的な現象であるため、自殺という複雑な行為に至るには、その上層構造である「価値判断システム」も同時に考慮されるべきである。
このシステムは、個人の成育歴、文化、共同体、記憶、言語、そして何よりその人固有の“選好”といった様々な要素によって構成される。ここにおいて初めて、量子ゆらぎがもたらしたインプットに対して、精神が「応答」する形での自由意志が現れる。
つまり、「自殺=自然」であることと、「自殺=判断された選択」であることは二律背反ではない。この二重性を認めることが、罪の問題からの脱構築へと繋がる。
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6. 補遺:人間へのまなざしとしての倫理
この議論は、決して自殺を促すものではない。むしろ、人が「よく生きたい」と思ったときにこそ、為政者や知識人による演繹的な倫理構造に押し込まれず、「自由でありたい」と願う怠惰で未完成な人間をも愛するような視点が必要とされる。
哲学とは、論理によって世界を整理する行為であると同時に、論理に馴染まないものに対しても優しくあるべきである。そうでなければ、その論理は本来的な倫理に至らない。
問いには、それ自身に決まった答えが用意されているわけではない。問い自身の論点がどこにあるか?という問いを生んで、より細かく議論が進むけれども、細かくなった問いに対してもさらにその議論の論点がどこにあるか?という無限ループに入ってしまう。それを打ち破るのは、その問いの答えを、不確定性を孕んだ結論として「えいや」と決めつけてしまえる人間の価値判断である。「論理は問いを無限に分岐させるが、文明はその問いを“決断可能な形”に収束させてきた。アキレスが亀に永遠に追いつけないという論理的結論を傍らに、現実のアキレスは一歩を踏み出す。“えいや”という飛躍がなければ、文明を発展させる決断は生まれなかった。人間の営みは、不完全な価値判断をあえて下すことにおいて始まる。故に誤りもするし、故に個々の多様性が容認されるられるようになったのである。
その前提のもとでは、自殺をめぐる問いもまた、演繹的に答えが決まっているわけではなく、人間の存在が本質的に抱えてしまう不確定性、矛盾、分裂を出発点として生まれる。だからこそ、「どうすべきか」ではなく「どうあるのか」、という問いに転換しなければならない。