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ColumbusのたまごColumnブログ

不確定性倫理 -社会契約説の脱構築化を手引きとして-

0. 序論:人間という存在への出発点

 


本論の出発点には、「高尚さ」だけではとらえきれない人間という存在がある。精神の中には、理性や意志だけでなく、怠惰や非合理、未整理な欲望といった要素が常に混在している。そして、それを含めて「愛おしさ」への眼差しが本論の根底にはある。


本稿は、自殺という現象について、それが個人にとって本来的に「罪」たりうるかを問い直す。制度的倫理・宗教・共同体的な価値判断ではなく、より原理的に、「自然としての精神」と「自由意志」から出発し、いかにしてその罪の構造が構成されているのか、あるいは構成不能なのかを探る。

 

 


 


1. 自殺の道徳性を問う意味とは何か

 


自殺はなぜ「悪」とされるのか。

多くの場合、それは共同体が維持されるための方便として説明される。宗教では労働力の損失=神や共同体への裏切りとされ、国家では生産性や国力維持のための“善き市民”の生存が前提とされる。しかし、こうした議論の土台にはすでに「人は生きるべきである」という教義的命題が据えられている。この「べき」は、個人の自由意志や本来性からくるものではなく、国家や宗教、経済という構造が演繹的に設定したゴールによって逆算されてきた帰結に過ぎない。

ゆえに、自殺が「悪」とされるのは、倫理や道徳の内発的な命題ではなく、構造的・管理的ドグマの産物である。

 


 


2. 自然としてのゆらぎと自殺の非罪性

 


現代において、決定論は量子レベルの「ゆらぎ」によって破られている。ブラウン運動や量子跳躍がそうであるように、一定以下のスケールでは未来は予測不能であり、因果は確率に置き換えられる。この自然科学的パラダイムに基づけば、人間の精神活動もまた物理的なゆらぎから発しており、絶対的な自律性(自由意志)は幻想であるか、あるいはそのゆらぎと連動しているものとみなされる。

自殺もまた、この自然の摂理に内在する「ゆらぎ」の一端として生じる現象であるならば、そもそもそれを道徳的・倫理的に罪に問うこと自体が誤ったアプローチである。

 


 


3.罪は誰のものなのか?

 


自殺における罪の帰属先が問題になる。仮に自由意志により自殺がなされたとしても、その時点で「自殺という行為を了解していた現存在」はもはや不在である。よって、それを責めることは、すでに抜け殻となった存在に対し後付けで罪を貼り付ける行為に過ぎない。

これはあたかも脱皮後の蛇の皮を見せしめとして吊るすようなものである。その行為が共同体にとって政治的・宗教的・経済的に「意味ある行為」であったとしても、それは本来的な倫理とは別の領域の論理に基づくものだ。

 


 


4. 生存権の再定義:生きることの自由と死ぬことの自由

 


伝統的な生存権は「他者から殺されない権利」として構成されてきた。

しかし、自殺を「ゆらぎ」の自然現象であり、かつ「多様性」として認めるとしたら、そこには「死ぬ自由」が内包されることになる。

これは「生きる義務」との矛盾を引き起こすが、そもそも「生きる義務」とは制度的ドグマであって、社会契約における原初的な自由とは相容れない。よって、生存権は本来的には「生を選ぶ自由」と「死を選ぶ自由」の両者を含んだ、より根源的な選択権として再定義されるべきである。これはまさに、死ぬこともまた生の可能性の一形態である、という思想的な踏み込みを必要とする。

 


 


5. ゆらぎが生む自由意志とその価値判断システム

 


ただし、「ゆらぎ」は短期的・微視的な現象であるため、自殺という複雑な行為に至るには、その上層構造である「価値判断システム」も同時に考慮されるべきである。

このシステムは、個人の成育歴、文化、共同体、記憶、言語、そして何よりその人固有の“選好”といった様々な要素によって構成される。ここにおいて初めて、量子ゆらぎがもたらしたインプットに対して、精神が「応答」する形での自由意志が現れる。

つまり、「自殺=自然」であることと、「自殺=判断された選択」であることは二律背反ではない。この二重性を認めることが、罪の問題からの脱構築へと繋がる。

 


 


6. 補遺:人間へのまなざしとしての倫理

 


この議論は、決して自殺を促すものではない。むしろ、人が「よく生きたい」と思ったときにこそ、為政者や知識人による演繹的な倫理構造に押し込まれず、「自由でありたい」と願う怠惰で未完成な人間をも愛するような視点が必要とされる。

哲学とは、論理によって世界を整理する行為であると同時に、論理に馴染まないものに対しても優しくあるべきである。そうでなければ、その論理は本来的な倫理に至らない。

 


問いには、それ自身に決まった答えが用意されているわけではない。問い自身の論点がどこにあるか?という問いを生んで、より細かく議論が進むけれども、細かくなった問いに対してもさらにその議論の論点がどこにあるか?という無限ループに入ってしまう。それを打ち破るのは、その問いの答えを、不確定性を孕んだ結論として「えいや」と決めつけてしまえる人間の価値判断である。「論理は問いを無限に分岐させるが、文明はその問いを“決断可能な形”に収束させてきた。アキレスが亀に永遠に追いつけないという論理的結論を傍らに、現実のアキレスは一歩を踏み出す。“えいや”という飛躍がなければ、文明を発展させる決断は生まれなかった。人間の営みは、不完全な価値判断をあえて下すことにおいて始まる。故に誤りもするし、故に個々の多様性が容認されるられるようになったのである。

 


その前提のもとでは、自殺をめぐる問いもまた、演繹的に答えが決まっているわけではなく、人間の存在が本質的に抱えてしまう不確定性、矛盾、分裂を出発点として生まれる。だからこそ、「どうすべきか」ではなく「どうあるのか」、という問いに転換しなければならない。

やべえやつは一生やべえやつでいてくれ

 昨今、SNSを開けば「やべえやつ」の話題で埋め尽くされている。奇行、迷惑行為、言動の一貫性のなさ——かつては身内の酒の席で語られる程度だった「やばさ」が、今や世界に向けて晒され、拡散され、嘲笑の対象になっている。本人がそれを望んでいるかどうかはともかく、われわれは今日も新たな「やべえやつ」を見つけては消費し、溜飲を下げる。道端で列に割り込むやつ、煽り運転をするやつ、飲食店で理不尽に店員を怒鳴るやつ——世の中には一定数、そういう人間がいる。そして彼らは、そう簡単には変わらない。

 


 やべえやつは、やべえままでいてくれる方が都合がいい。なぜなら、彼らが突然まともになったところで、観測者にとっては面白くもなんともないし、「あいつ、前はやばかったのに」と拍子抜けするだけだからだ。むしろ、彼らには最後までやべえままで突き進んでほしい。本人が気づかぬまま、社会の中でどんどん生きづらくなっていく——それこそが、観測するわれわれにとっての一種の娯楽であり、納得のいく結末だからだ。

 


 そして実際、やべえやつは大抵の場合、やべえままでいてしまう。最初はSNSで暴れたり、道端で割り込んだりするくらいだったものが、次第に範囲を広げ、家族や友人、職場にまで影響を及ぼしていく。親族とは何かしら揉めごとを起こすだろうし、友人からは距離を取られ、職場でも扱いに困る人間になる。それでも本人は、『自分は悪くない』と思い込みがちだ。結果として、気づかないうちに孤立し、どんどん生きづらくなっていく。われわれとしてはその顛末を静かに見守るだけで十分である。 「あんなに好き放題やっていたのに、気づけば誰も味方がいない」という状況は、やべえやつ自身が招いたものだ。周囲が矯正しようとしても、大抵の場合、労力の無駄に終わる。ならば、彼らがやらかし続けるのを眺め、やがて自滅していく様を観察するほうがよほど合理的だ。彼らが転落していく様は、時に滑稽であり、時に興味深い社会実験のようでもある。

 


 輪廻転生的な考え方を持ち出すなら、「やべえやつ」がやべえまま生き終えることこそが、彼らの業の完遂であり、同時に罰でもある。日本人には馴染みの深いこの考え方——生まれ持った性質や行動が、その人間の運命を決めるという発想を当てはめれば、「やばさ」を抱えたまま生きることが、その人間にとって最も自然な道だと言える。自らの「やばさ」に気づくことなく死んでいくこともあるだろうが、それはそれでいい。『やべえやつに「悪役」を押し付けて、安全な場所から見ていられる。』そう思い込んで、やべえやつがやべえままでいてくれることが、ひとつの現実として皮肉にも心を落ち着かせる理由となっているのだ。

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ハムレット症候群

 後が案外生きることよりも穏やかで、楽なものだとしたら、恐れる必要もないはずである。それを確認して帰って来れる人がいないものだから、本当のところどうかはわからないが。確かなことは、私たちが恐れているのは「死」という状態ではなく、その実「死ぬこと」という変化ということ。その恐れから、ただ生きている現状を維持し続けている、ということに気づくことができる。


「死ぬ」とは、エネルギーの遷移のようなもので、私たちがある意味で「死ぬ」という山を越えなければ、わざわざその先の境地に踏み入れることはできない。生きている状態と死んでいる状態に本質的な差がないと仮定したとすれば、私たちが生き続けてしまう理由は、「山を越えるのが面倒だから」ということになる。個々に生きる目的は数多あり、種々の生き方はあれど、結局それはその人生の枠内の話であって、死をも壇上に揚げ生きている理由を説明しようした時、ただ偶然生まれたからというもの以外に帰結のしようがない。

 


 もそも、人間を含む生命は「現状維持」することに存在の本質がある。生命を維持するために恒常性維持機能を備えており、身体は極端な温度変化を避け、代謝を調整しながら自らのバランスを保とうとする。限られた環境でしか生きられない身体を守るため、変化を抑え、安定を維持するこの本能的な仕組みこそ、私たちが現状維持を取り続けることに根拠を与えている。

 


 方で、集合体・共同体においてに限らず、個人においてまで現状維持を否定する向きがある。「変化しないことは衰退と同じ」などと言われ、前進することが求められる。しかし、恒常性維持の観点からすれば、個体にとって変化し続けることは積極的に死に向かう行為ではないか?もし「変化しなければ生き残れない」と言うのならば、それは個体の話ではなく、種や社会のレベルの話である。自然選択や適者生存といった理論は、集団の中での競争を説明するものであり、個体の生き方に対してではない。

 


 私たちは「いつかは来るが、今じゃないもの」として死から目を逸らし続けており、生き続けることに関しては大義などなく、ただ偶然生まれ落ちたついでに生き続けているだけなのだ。変化がもたらす可能性や未来の価値を語る理論がいくらあっても、個々の人生において、山を越えるという行為は、言ってしまえば面倒な一歩という以上に当てはまる説明がない。少なくとも、いま、わざわざ山を越える理由はないし、To beとNot to beの違いも大して重要じゃないのである。

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【第7回 #鳥オフ】鳥を″特别″にするには【RR-ワイルド・ヴァルチャー】

自分の鳥カードが″特別″であると示すオフ会、鳥オフ。先月11月初旬に4年ぶりに開催でき、第7回は新しく参加者された方、リピーターの方、運営含め全員楽しんで終われたと思います。運営として携わったオフ会がこんなに愛されて嬉しい限りです。

 

さて、鳥オフが始まって以来6年、私Pmanは《RR-ワイルド・ヴァルチャー》を鳥カードとして選んで参加しています。カードプールの変遷とともに、手を変え品を変え色々な《RR-ワイルド・ヴァルチャー》のデッキを組んできました。好きという感覚を超え、ある意味もう執着とか呪いとかその域に達しているのかもしれませんね(笑)

 

恒例となった、鳥オフ独自の対戦相手への評価システムですが、運営の私も評価していただいていました。(ランキングには参加していません)

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嬉しいことに、18点満点中16.56という高評価をいただき、運営内で1位を取ることができました。俺の鳥が最強や!

 

さて、ブログ記事リレー企画として、鳥オフ運営による鳥デッキの構築方法の提案・例示をテーマに記事を作成しました。これまでの【RR-ワイルド・ヴァルチャー】を振り返って思うことを下に記しましたので、ゆっくり読んでみてください。

鳥オフ前にデッキレシピ例示記事も書いておりますので、そちら併せて見ていただけると嬉しいです。

crowingspear.hatenablog.com

 

 

鳥を″特别″にするには

 

客観視を獲得するともに主観が迷子になるのが青年期であり、人は青年期、そしてモラトリアムにかけてアイデンティティの獲得を目指すものである。こういった時間に遊戯王というゲームしてきた身にとって、アイデンティティの獲得という発達課題への挑戦の苦しみは、デッキ構築にも現れていた。

 

鳥オフというオフ会でデッキ構築をするにあたって、たとえば《RR-ワイルド・ヴァルチャー》であれば、《RR-ワイルド・ヴァルチャー》は誰なんだ?から始めるだろう。そして《RR-ワイルド・ヴァルチャー》にしかできないことは何か。《RR-ワイルド・ヴァルチャー》でなければならない理由は何か。《RR・ワイルド・ヴァルチャー》が″特別″になれるシチュエーションを探して、悪戦苦闘が始まる。

 

面接のための自己分析が苦しいのとまるっきり同じだ。恋人にとって俺でなければいけない理由。御社にとって自分が必要な理由。俺は何のために生きて、どう死ぬのか。人生の目的は。勉強で身につけた客観視を駆使し、この世界で俺が″特別″であるという証明問題を解かなければならないという強迫観念に駆られてしまう。

 

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《RR-ワイルド・ヴァルチャー》を中心にして、相性の良い《ダークネス・シムルグ》《闇黒の魔王ディアボロス》がくっついてきて、それを揃えるためのカード、相性の良いカードが全てのカードプールから候補として挙がってくる。テキストではない。カード達の相関図そのものこそが、《RR-ワイルド・ヴァルチャー》を表す全てである。しかしながら、デッキの中にその全てを内包することはできない。ただ一側面に限定して《RR-ワイルド・ヴァルチャー》の相関図を切り取る作業である。そこに、「俺にとっての」《RR-ワイルド・ヴァルチャー》はこうなんだという観念が、デッキとして形に現れる。

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自分という存在の″形″がレーダーチャートのように確定していく青年期に身につけられる言葉が「俺にとって」という枕言葉である。自分が全世界に対して唯一性を帯びる必要はないという免罪符となる反面、自分の価値観や能力が白日に晒されてしまう恐ろしさとも戦わなければならない。まるでマインスイーパを1マスずつ開けるときのように、ハラハラした気持ちで、「俺にとって」の形を探っていくことになる。その形は、一生懸命身につけた客観視にとって何の意味も持たない。

 

「俺にとって」という唯一性を捨てる免罪符を使用した以上、全世界に対し唯一でなければならなかったデッキは、唯一でなくなってしまう。「人それぞれ」という凡庸な価値観で片付けられてしまう恐ろしさからそのデッキを認めてあげられるのは、迷子になっていた主観しかいない。世界が《RR-ワイルド・ヴァルチャー》を愛さなくても、俺が愛していればいい。

 

この世界で自分の好き嫌いを判断できるのは自分しかいない。価値観の主体を自分に取り戻せたなら、「俺にとっての」という枕詞を使う必要がそもそもない。唯一性を求めないことが罪でなくなった今、免罪符も意味をなさなくなっているはずだ。世界にとって自分が特別であると証明するのが目的ではない。幸にも不幸にも、俺にとって自分は特別でしかあり得ない。

 

つまり、鳥カードが特別になるのはデッキ構築によってではなく、デュエルによってでもない。主観で″鳥″を選んだ瞬間である。あとは、俺にとって見せたいカードの一側面とは?を考えてやるだけ。俺にとっての″特別″のイメージを自分に対して示したものが鳥デッキとなる。

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第七回 #鳥オフ 【サンプルデッキ紹介】 【RR-ワイルド・ヴァルチャー 2.5】

鳥オフ という遊戯王カジュアルオフをご存知でしょうか。

参加者全員が「鳥デッキ」のみを携えて戦い、参加者の投票により最も輝いていた「鳥カード」を決めるという異色のフリー対戦オフです。

イベント概要はこちら。募集が始まってはや1ヶ月、満員御礼につき増枠中です。現時点であと3枠!

twipla.jp

 

申し遅れました。私はPmanという者です。

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過去《RR-ワイルド・ヴァルチャー》を鳥カードに据えて参加していました。今回の鳥オフには参加できませんが、運営という形で携わっております。

 

さて、参加者の皆様におかれましては、鳥カードの選定、「鳥デッキ」の構築に勤しまれていることかと存じます。鳥カードの選定や基本的なデッキ構築はもちろんだとは思いますが、鳥オフ公式へ「スピードやパワーライン」に悩む声が寄せられていました。

Xの「#鳥オフ」ハッシュタグから過去レシピを参照してもらい雰囲気を掴んでもらえれば一番ですが、4年越しの開催ということで、出来ることはかなり増えております。自ずとカードパワーも上昇しているため、実際のところ会場で飛び交うカードがどうなるかイメージしづらいです。(運営も想像しきれない所があります)

 

そこで、「私がもし参加できたらこんなレシピを持っていくぞー」というサンプルをこちらの記事に貼り付けますので、参考にしていただければ幸いです。(参加できず悔しいですが…!)

先に断っておきますが、鳥オフは勝ち負けが最終結果の良し悪しに直結するオフ会ではないです。このレシピをメタってもあんまり意味ないぞ!

 

RR-ワイルド・ヴァルチャー

さて、《RR-ワイルド・ヴァルチャー》というカードをご存知でしょうか。

「RR-ワイルド・ヴァルチャー」

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効果モンスター

星6 /闇/鳥獣/攻 1600 /守 2000 
⑴:このカードが召喚・特殊召喚に成功したターンの自分メインフェイズにこのカードをリリースして発動できる。レベルの合計が6になるように、自分の手札・墓地から「RR」モンスター2体を選んで特殊召喚する。

 

唯一のレベル6 RRモンスターで、自身をリリースしてモンスターを2体展開する効果を持っています。人呼んで「9期の《インフェルニティ・ガン》」です。

このカードの特徴はアドバンス召喚できる闇属性」「自信をリリースできる闇属性」という2つの性質を併せ持つことです。

 

 

つまり、ダークネス・シムルグ》《闇黒の魔王 ディアボロ》両方のトリガーになれるのです。さらに、RRを2体出力するため、《RR-ネスト》のサルベージ効果により自身を手札に戻せます。

 

つまり、《RR-ワイルド・ヴァルチャー無限シムルグディアボロス+レベル3×2出力エンジンと化します。

 

「ランク5以上のRR Xモンスターに頼らず、メインモンスターを中心に攻め込んでいくRRの異端感」、そして「ワイルド・ヴァルチャーが全ての起点になる所」が、このデッキを使う面白さだと思っています。

3年前に更新したデッキレシピ記事は、上記のギミックをメインに据えています↓

crowingspear.hatenablog.com

 

デッキレシピ【RR-ワイルド・ヴァルチャー2.5】

 

 

上図が現在のデッキレシピです。

2.0のレシピに対し下記2点のアップデートを施しました。

「絶神鳥シムルグ」で安定性向上

もともと《王神鳥シムルグ》《ダークネス・シムルグ》を使用しデッキの終着点を担っていた「シムルグ」ですが、《絶神鳥シムルグ》がめちゃくちゃ強いです。RRと相互に矢印が伸びており、序盤は《ダークネス・シムルグ》出力補助、中盤は自身による手数確保、終盤は《烈風の覇者 シムルグ》による盤面出力UPと、ゲームを通して隙なく安定性を底上げしてくれます。

 

 

「ビーステッド」でディアボロスへアクセス+トリガー用意

2.0のレシピにおいて、デッキにいる《闇黒の魔王 ディアボロ》へは、最序盤の《永遠の淑女 ベアトリーチェからしかアクセスできなかったのですが、《深淵の獣マグナムート》のいる「ビーステッド」を採用することでこの困難を緩和しています。《深淵の獣ルベリオン》《深淵の獣バルドレイク》《烙印の獣》と闇属性リリースのトリガーにも事欠かないので、《RR-ワイルド・ヴァルチャー》への負担軽減も図れました。「ビーステッド」自体の継戦力で、モンスターを一掃されても「ビーステッド」1体を浮上させ、《RR-ワイルド・ヴァルチャー》のリリース要員確保、なんてこともできるのでとても心強いです。

 

そのほかにも下記2点のうまみがあります。

  • RR-ネスト》が破壊された場合にサルベージ効果を発動した《RR-ヒール・イーグル》を《復烙印》で戻せる
  • 深淵の獣ルベリオン》《闇黒の魔王 ディアボロ》でのランク8素出し
  • チューナー確保から《PSYフレームロード・Ω》《RR-レディネス》コンボを狙える

 

デッキの弱点

このデッキのどうしても拭えない弱点は以下2点です。

  • 最序盤に《RUM-ソウル・シェイブ・フォース》でLPを半分にしてしまう
  • 打点3000を超えるモンスターへの対処法が少ない

以前からの課題事項で、高打点モンスターやデバフ・バーンによる突然の詰み発生して困っていました。一応EXデッキに頼って対処するプランを用意しました。

前者:「Ωレディネス」の再採用

後者:「プライム・フォトン」系、《RR-デビル・イーグル》

 

鳥オフ参加者各位

私自身、長い時間《RR-ワイルド・ヴァルチャー》について考えてきました。カード効果の性質上、最終盤面に残って殴るようなモンスターではないのですが、その分コイツを乱舞させられるデッキを組めたと思っています。

パワーラインについて

あくまでも《RR-ワイルド・ヴァルチャー》が一番活躍することを基準にしていますので、スピード・パワーライン・妨害の程度は良くも悪くもコイツの性能で頭打ちになります。「ワイルド・ヴァルチャー」の活躍を魅せる目的でデッキを組んでいるので、デッキが位置するパワーラインが制限されてしまうのが実情です。(不器用なヤツでごめんなさい)

クセのある鳥が沢山出るわけですから、参加者各々がそれぞれの鳥カードに最適化したデッキを組んできた場合、デッキのスピードが合わない交通事故的な対戦をゼロにすることはできません。

その分いろんな方と対戦して試行回数を重ねれば、鳥カードが活躍する機会を増やしてあげられると思います。

 

さいごに

上記しましたが、鳥オフでは勝ち負けが結果の良し悪しに直結しません。

 

参加者の皆様におかれましては、己の「鳥カード」を魅せるデッキを組み上げ、対戦において遺憾なく発揮して欲しいです。加えて対戦結果にとらわれず、相手の鳥デッキの面白いところを見つけていただき、鳥オフを存分に楽しんでいただけるよう祈っています!

 

2次会も参加してね

「久々にトチ狂った遊戯王、したいな…」

  ↓
【第七回】鳥オフ【遊戯王カジュアルオフ】の参加を決意する
  ↓
鳥カードと三日三晩向き合う
  ↓
当日、数多の鳥達と鎬を削る、闘争の戦禍に身を投じる
  ↓
身体は鶏肉を求める
  ↓
鳥オフ二次会が開催される

 

ということで、鳥オフ2次会恒例となった、鳥を食べる会。鳥デッキについて語りあい、存分に鳥を食らってください!

参加表明をお待ちしています!

https://twipla.jp/events/577131:鳥オフ2次会リンク

『″一般論″論』

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自分が見つけた″一般論″を語りたくなった時には注意が必要だ。


そもそも一般論は、一般化を極めれば極めるほど、味が薄くなる。どの地域・どの人種・どの時代にでも通じるような一般論はほとんど語り尽くされて社会通念として溶け込んでいる。誰にでも通ずるような社会通念を説かれることは、パスタを食べながらその茹で汁の品評をしているようなものだ。


「「ニュートン力学のma =Fなる運動方程式」は、かなり広範な運動を記述できる。ただ、その式自身は抽象的で、ma=Fと言われただけでは、それがどんな運動を表しているのかさっぱりわからない″一般論″的な式というわけだ。

バネに繋がれているとか、初速0だとか、限定的な条件を使って、他の可能性を捨て去ることで初めて、眼前にある運動を「味わう」ことができる。


さて、「味付け」は一般論の可能性を捨て去るんだが、同時に話の面白味を増してくれる。

″一般論″を自分が語りたいと思ったなら、多かれ少なかれその論を味わって欲しいはずだ。しかし一般論とは元来無味乾燥なのだから、いわゆる″一般論″の旨さは、限定条件の「味付け」のおかげである。


例えば、あるあるネタが面白いのは「味付け」によって限定した範囲で、限定した範囲内の人に対して語るからであって、今や『3日連続朝が来る あるある探検隊 あるある探検隊』と言っても面白くない。他にも…オードリーがボディビルダーだけに漫才を行ってバカウケするのは、ボディビルダー向けの味付けをネタに仕込んだからだと言える。話は逸れるが、「人それぞれ」という言葉は、かなり味の薄い一般論だ。具体的な話を避け、味の薄い水で流す時に処世術的に使われる、他人との関係を薄くする言葉。

話を戻すと、″一般論″を一般論として面白く語る時、何かしらの味付けを加えている。味付けを加えると同時に、面白味を感じてほしい対象=目的語を小さく絞っているはずだ。

「動物ってのは赤ちゃんを見ると無条件で守ってやりたいと思うものなんだ」とか、「オタクは〜」「若いもんなら〜」だとか。そうして、味付けによって目的語が小さくなった分、相対的に主語がでかくなる。

つまり、″一般論″を面白いと思い語ろうとしたとき、それは必ず主語がでかい話になる。

 

 

わかる?」

 

今年最後の猛暑日。コップの足許を取り囲んでいた楕円形のシミが消えようとしている。

まずいな。へんな喩え話しか頭に入ってこなかった。


「とはいえ、パスタの茹で汁って結構塩味感じちゃいませんか?」


「え、何の話してんの?話聞いてた?」

 

なめてんの?と続きそうなくらいの鋭さでツッコミが飛んできた。咄嗟に笑ってごまかそうとしたが、先輩が望むような表情を出せた自信がない。苦笑いを誤魔化すために飲んだミネラルウォーターは、常温に戻ったからか、それ自身とても甘く感じた。

想いが全てであることについて

怒りとは、6秒しか続かない感情であるという。

 

また、論理は道筋を照らす道具である。その道具を扱うのは人間であり、人間の行動を指針するのはその者が持つ想いである。

逆から辿れば、想いが結論を指針し、人間はその結論を得るために行動する。

嬉しい。ありがとうが言いたい。だから口を動かす。

むかつく。相手を打ち負かしたい。だから拳を振るう。

 

シャカパチや《クシャトリラ・フェンリル》に対して冷静そうに論理をしたためていようと、抱いた怒りに突き動かされている限り、指針立てに6秒も使えていないことになる。

むかつく。非難したい。だからブログにしたためる。

ここで論理は、「したためる」ための道具、手段として使われているだけであり、結論ありきの超短視眼的安易な誤謬に気づかず、指針立てに耳を傾けるだけで、論理の危機に言い訳ができない日々となってしまう。怒りに囚われるのが悪かどうかは別にいいたいことではないんだけど。

 

この「想い→論理」のフローに「止揚」というプロセスを挟んでみる。

生きている限り、一つの想いに囚われ続けることは稀だ。昔言ってた理想論を幼く感じたり、それを幼く思っていた自分をまた青く感じたりするように。

止揚とは、自分の思考Aを一度止めてBという思考で否定し、その否定を乗り越えることでA+にブラッシュアップさせるプロセスのことを言う。

自分が考えていた想いをメタで見つめたときに、「でも」という洞察ができないか。そしてその「でも」に対してカウンターをすることで想いが1段階スパイラルアップする。

 

「このコンボ、最強じゃん!」という激情からデッキを考え始めた後、時間を置くと醒めた目で見えてしまうことがある。チャンスである。

その醒めた目に対して自分なりにカウンターができたときに、気に入るデッキが完成するのではないか。頭の中でケチをつけてデッキを嫌いにさせてくる、紛い物の理性にカウンターできるようになったのだから。

 

自分が何の想いに振り回されてどの結論を得るために考えているのかを意識する。

止揚を、しよう。(結論)