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【まい投2020-69日目】なぜ〜すべきなんですか?

「すべき」「する必要がある」という言葉を安直に使ってしまう私たちは、それをなぜ「すべき」なのか知らない。

「なぜ勉強しなきゃいけないの?」という問いに対して、「将来の選択肢がたくさん持てるからだよ」「テストのためだよ」と答えるかぎり、その答えからは動作の主体が抜け落ちてしまっている。

勉強しなきゃいけないかどうかの判断では、勉強する側が秤を握っている。(それが妥当かの判断力が優れているかは横に置くとして)

 

だから「勉強しなきゃいけない理由」はまず勉強しなきゃいけない人に着せられるはずだ。
「なぜ勉強しなきゃいけないの?」という問いに答えるとすれば、第一義的には「あなたが勉強しなきゃいけないと思うから」である。
「勉強しなきゃいけないと思う理由」を説明するときに初めて、たとえば「将来的な〜」という具体的理由が判断材料として加わる。しかしそれも、あくまでも「〜を善だと思うから」という但し書きつきである。「将来的な〜」は人によっては望ましいことではあるが、望まれているかどうかはその人しか知らない。いきなり一般論から始めると、勉強するか決める側の善悪の判断が置き去りにされてしまうのである。

 

ベイビーステップでこの問いに答えていくとこうなる。

なぜ勉強しなければならないか?
それはわたしが勉強しないといけないと思うからです。
わたしが勉強しなきゃいけないと思う理由は、「将来の選択肢が増えること」が善だ、とわたしが思うからです。

 

どれだけ権威のある客観的事実だとしても、それについて生み出した観念が直接的な判断材料になるので、「なぜ〜すべきか」という問いは結局「〜だと私が思うからです」に行きつく。

地球温暖化」という既知の事柄を耳にしたとき、「憂うべきことだ」だとか「ウソだ」というイメージが頭に立ちこめてから、そのイメージありきの証明が始まる。その証明には正しいと思われる根拠が使われるが、ただイメージの根拠付けのために集められたものである。だから、根拠そのものではなく、根拠に恣意的に付けられたイメージが判断を決めてしまう。

結局のところ、空中に浮いた一般論ではなく、「あなたの判断」がその決断の任を負うのである。

逆にいえば、「なぜ努力しないんですか?」といえ問いがあったとして、

「ごめんなさい努力すべきですよね、努力して自己研鑽して自分の市場価値上げて将来の生活を安定させていかないとですよね。ほんとはやらなきゃと思ってるのにね」と答えたとするなら、答えた側は一般論に判断を委ねまくっている。

一般論と、一般論に自分の判断を下す過程を分離させることではじめて、「すべき理由」がはっきりと見えてくる。自分がやりたいことをやる理由もそこに出てくるだろう。

さっきの悲観的な答えより、「いや努力する必要性感じないんですけど笑」で一蹴してるのほうが心が健康に見える。