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ColumbusのたまごColumnブログ

【まい投2020-46日目】はぁ・・・まだ物理法則なんてものに囚われてるんですか・・・

世界の理解の仕方は人それぞれ微妙に違う。多様性が認められ始め、その感覚が広がってきた。

その中で、「はぁ・・・まだ物理法則なんてものに囚われてるんですか・・・人によって物理法則は違うんですよ!?(意訳)」という言説を目にした(ツイッターで)(どのツイートが忘れた)

 

自分も「人それぞれ見ているものが違う」という、一見似た意見を宣っている。その中でこれを見て、あまりにもラディカルな意見に衝撃を受けたので、自分なりに「何が人それぞれなのか」考えてみたい。

 

ここでいう物理法則とは、科学によって見つけられた法則か、法則を見出せる世界そのもののことだろう。

 

科学は、世界を見る「方法」の一つであって、その意味では宗教や個人の世界観と並列する。

よく勘違いされることだが、第一義的には、科学が世界の正しい姿なのではない。世界を理解するための道筋だ。扱うテーマが自然だったり社会だったりはするが、科学というアプローチの仕方なのは変わらない。

科学は、誰にとっても正しいと思われる素朴な(ア・プリオリな)ことからスタートする。暗に客観的な世界を想定している。

そこに「100の精度ではないけど」観測や事実の積み重ねで根拠付けをして、「多少の揺らぎは生まれるけど」数式とか言葉を紡ぎ、科学が成り立っている。

確かにまだまだフロンティアはあるし、より新しい価値観によって更新されたりはにする、未完成な翻訳機のようなものだ。

 

未完成といっても、観測の精度も、よく知られたテーマでは99.9999%まで高められていたりするし、より適切な数式や言葉で理論が書き直され続けている。

もし仮に、低く見積もって70%くらいの観測精度・10%の言葉のゆらぎで表された自然法則があったとしても、63%はだれにとっても正しいのである。

残りの37%が「人それぞれ」なのかというと、それも違う。

あくまでもどこまで世界の真の姿に近づけるかという割合だ。観測精度が向上すれば「人それぞれ」の割合が減るというのはおかしい。

 

「人それぞれ」が可能なのはせいぜい「世界そのものについての見え方」か「科学に対する考え方」くらいであって、「客観的な世界そのもの」や「科学という方法で言い表された法則そのもの」では断じてない。

「わたしだけ重力が地面から空に向いてるんですよ」みたいな、客観的な世界に介入する「人それぞれ」だとしたら、自分の物理法則で思うがままに飛び回る人間が世界中にいることだろう。

 

一個人がもつ自分の世界観と、自分以外にある客観的な世界観を混同していることがこの誤謬のスタートに思える。

その人の物理法則が人類の叡智の63%を上回れるなら、信じてみたくもなるが。