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【まい投2020-61日目】実在しない存在と自然

「自然」と聞いてまずイメージに浮かぶのは、流れる川、泰然と在り続ける海、そびえ立つ山、そして鳥やライオンなどの動物が生き生きとし、木々や美しい花などの植物が揺蕩う映像だ。

自然といえばかなり広範な意味をもつのだが、「人の手の入っていない、ありのままの姿」という自然の狭義の意味がコアにあるためにまず思い浮かぶ自然がこの映像となるのは不思議ではない。その対義語は人の手の加わったもの=「人工」である。

 

科学のなかでも自然を相手するセクションである「自然科学」の「自然」は、より広い意味だ。

狭義の自然は、実在するオブジェクト一個一個にフォーカスを置いている。

鳥やライオン・種々の木や草花は、取り出せば「生き物の一個体」という一個一個の実在だ。山や川や海は生物ではないが、切り取って一つのものとみなしているので一個の実在である。

 

これら自然の中にある存在が「ただ存在しているのでなく、何か原因があってそこに在るのでは?」と考える立場にいるのが「自然科学」だ。

もしかしたら科学という方法以外でもこのような信条があるかもしれない。とにかく、あくまでも自然を見る方法の一つが「自然科学」というだけのことだ。

 

自然の中に「山」という実在と「川」という実在があったとする。

「川が流れているのは山という高いところから水が落ちる力が原因だ」と考えたとするなら、

「山」という実在と「川」という実在のあいだに「原因」という実在のない存在が現れることになる。これは「重力」として知られているのだが、重力は一個の物としては目に見えない。

この原因という存在と「山」の間でも同じことを考えると、別の原因という存在が浮上してくる。自然内の実在「山」と「川」の間に存在するので、「原因」もまた自然の中のもの、ということになる。

 

自然科学の対象である広義の「自然」の範疇には、我々がイメージする自然の、「個物にフォーカスするということ」に加えて、実在する物同士をつなげる「原因」も含まれている。

この原因は自然法則とか言われることが多い。

人もこの中で生きる以上、その拘束を受ける。

だれも重力に逆らって生まで宇宙には飛び出さない。自然法則がそれを禁止している。

この原因を辿っていくと、人の手の加わっている範囲にも共通の原因が見出され、「自然」のカバーする範囲が広がる。

この程度広くなった自然は、「人工」のカバー範囲を全部含んでしまう。

その限りで、自然と人工が対立概念ではなくなる。

 

その昔、「神は自然である」と言った社会学者がいたが、聞き手が「狭義の自然」の話だと勘違いしてしまうと、神様とその辺に転がる実在が同列に扱われたと感じることになる。存在が全て目に見える個物だと思っていだ人は、(見えない神を信じているにもかかわらず!)神が俗におとしめられた、と怒ったそうである。

その社会学者がいいたかったのは「広義の自然」でのお話。根本原因たる神は実在を持たないが、存在はする。この区別ができていれば、同じ性質を持つ「原因」の数々の究極系を「神」と呼んだとしても何の違和感もないし、その権威が失われることもない。目に見えない神が「存在できる」のはむしろ、実在のない存在が認められるおかげなのである。