1日目 「書く」欲求の源泉
日常当たり前にしていることの意味や目的を改めて考えることが私にはある。
例えばブログなら、文字を書くという行為について、「何かを書きたいという気持ちはどこから来るのだろう」などと思いを巡らせたりする。
「書く」(描くも同じ)の語源は、木や洞窟を引っ掻いて文字や絵を残すことである。それは「木の枝や尖った石を食い扶持以外に使う」という、人間の代表的な文化的躍進の一つだ。
「壁画という形で絵を『描き』残した飛鳥時代の人は何を思って描き残したのか」と、先日猛暑日の中立ち寄った高松塚壁画館で黙想した。
1400年前に描かれた壁画を見て僕は、俗な考えで大変恐縮だが、「壁画という長い時間をかけて残るもの」と「僕が書くブログ」の違いについて考えた。僕のブログは長くてもせいぜいはてなBlogがサービスを終えるまでしか残らない。時間軸で比較したとき、自分のBlogのちっぽけさに押しつぶされそうになった。
一方で、情報の伝達の仕方を、別の軸で考えると様子が違ってくるとも思った。たいていの情報は、同時に生きている人同士で伝わる。言い換えれば、(1000年に比べれば)ほとんど時を同じくして空間的に広がっていく。キーワードは「空間軸」である。時間軸と空間軸の作る部分の広さが、作品の影響範囲と考えた。自分が書いた記事や本が千年後に読まれるのもいいが、生きているうちに読んでもらうのも、「自分という存在を広げる」という意味で価値があるのではないか。
イラストを「描く」こと、研究論文を「書く」ことなど、自分の脳内イメージをカタチあるものに投影する行為には同じことが言えるように思う。「第二の死」という言葉があるように、肉体が滅んでも、人間は忘れ去られるまで生き続けることができる。自分という存在の影響範囲を時間軸と空間軸の両方向に伸ばして生きたいという生存欲求が「かく」ことの源泉になっていると僕はにらんでいる。
「書く」ことで、世界のどこまで「爪痕」を広げられるか。まいにち投稿やってみます。
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