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【まい投2020-80日目】犠牲という名の依存

打てば響く鐘という言葉があるが、打ったとおりに響くだけが鐘ではない。
xという強さで叩かれたとき、yという振幅で触れるとしよう。
誰かの意向に立ち向かう反抗は、y=-xのグラフのように、xに対してyが反対の値をとり続けようとすることだ。
打てば打つほど減衰して響かなくなる  \dfrac{1}{x} 、という防衛反応もまた、xに依存して響いていると言える。
いずれにしても、叩くという入力xに依存した響き方をしているという意味で、なべてこれらは「打てば響く」にくくられる。

反抗は往々にして依存からの脱出を目指すが、反抗者が目指すのは打たれても響かない鐘で、y=0のことを言う。
叩く方は鳴り響く音を求めているわけで、音が出ないとなれば彼はまた叩くだろう。次やその次もy=0を続けられる人はそういないと思う。
見落としがちだが、依存しない方法は「響かないこと」だけではない。「打てば響くがどんな打たれ方をしても同じ響き方をする鐘」もまた依存しない鐘である。つまりy=定数だ。

つい反抗したくなってしまうことを含め、叩かれて反応する・また無反応でいようと努めてしまう限り、自分はその人に依存してしまっている。同じ響き方で居続けること、虚心坦懐に接することが依存しない方法であって、無視すること・遠ざかろうとすること・逃げること・攻撃すること・支配しようとすること諸々はそれぞれ「依存の一形態」に過ぎない。結局、その人を拒絶することはむしろ依存につながるのである。

人は意識せずとも何かに依存して生きていて、何者にも考えを預けずにいるのは真っ暗な荒野に一人でいるかのように心細いだろう。覚悟とは、そのような状況であっても自分の道を進む者に宿る。「犠牲の心」も「~のために犠牲になる」という意味で依存した心であって、やっぱり「覚悟とは犠牲の心ではない」と改めて思うのである。

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