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ファンデッカーは楽しいデッカーじゃない

「でさあ」で始まる歌詞の歌を、「危険すぎる」以外に知らない。

BLANKEY JET CITYのGt.Vo.浅井健一のソロデビュー曲で、コーラスには椎名林檎が参加している。

浅井 健一の"危険すぎる"をApple Musicで

 椎名林檎にしろ浅井健一にしろ何を食ったらこんな狂った発想が降りてくるのか。常人には理解できない。

 

 

 

ファンデッカーは狂気のデッカー

 

ことファンデッキの構築で、個性を出そうとした途端苦しくなる理由は、己がファンデッカーじゃないからだ。俺は、弱い。

 

ファンデッキの構築は苦しい。僕にとってファンデッキとは、穴という穴から血を吹き出して、地べたに這いつくばりながら組むものだ。どうしてこんなに苦しいのか。

 

 ファンデッカーのファンは「狂信者」を意味するfanaticからきている。遊戯王を宗教とするなら、正道の信仰からかけ離れた、狂気を孕んだ存在がファンデッカーということになる。つまりファンデッキは、狂気が感じられるデッキでなければならない。

 

狂気はその人の外からやってくるか?否、内にしかない。だからファンデッキは相手や環境ではなく己の内側から発信することでしか作れない。ファンデッカーになるには、自分の内にある狂気を引っ張り出してくる必要があるわけだ。その人をファンデッカーと感じるなら、彼の内なる狂気がそうさせているに違いない。

 

 全方位に対して健全な社会生活を送れている常人にとって、狂気をさらけ出すのは難しい。きっとほとんどの人はそもそも自分の中にある狂気にすら気づけていない。自分の狂気の存在に気づかないまま、己に狂気などないと思っている常人というわけだ。僕にも狂気はないけどな。

翻って考えれば、ファンデッカーは、内にある狂気をさらけだせるデッキメイカーのことだ。そのために外側にある殻を剥がす訓練を積んでいるか、剥がす必要すらない「狂気そのもの」かのどちらかである。

 狂人が組むのとは違って、常人がファンデッキを組むには色んなものを自分から剥ぎ取らなければならない。

「実現するの?」「ほかのカードでよくね?」という、あたかも自分の構成要素のような顔をした、外からやってくるまがいものの理性を破壊し、

自分が本当にしたいことは何か。そもそもなぜ自分はそれを好むのか。そもそも俺にとっての好むとはなにか。等々、自分の内にある独自の言葉を使ってさらに内へ内へ掘り進む作業である。

 

常人には自分の内側は非日常だ。

他人に習った言葉で、自分を外側から見ることに慣れた私たち常人にとって掘り進む作業は苦しい。「日常生活では必要のない内なる狂気をさらけ出す」ためだけに、非日常に足を踏み入れるわけだから。

 

「理性=まがい物」と言ってるわけじゃないと、ここで断っておきたい。

理性は科学のことではないし、神様を否定もしない。自分の内にあるものだからだ。

まがい物の理性とは、誤解を恐れずに言えば、他人から伝え聞いたままの生の情報のことだと思っている。それを咀嚼して腑に落としてはじめて自分のものになる、というのが僕の考えだ。

「どこまでいけば"腑に落ちる"といえるか」は今回捨て置く。

 

ここまでの思索で、「でさあ」で始まる狂った歌詞は、外から降ってくるものじゃなくて自分の内からつかみ取ったものだとわかる。外からやってくるって考えてるうちは、僕は常人なんだなあ。

 

過去に「デッキ構築をやめよう」という記事を投稿した。「デッキに個性を出すのに苦しんで遊戯王を楽しめなくなっているのなら、プレイングや環境に目を向けてみよう」という記事だった。

今思えば、なりたくもないのに漠然とファンデッカーの道に迷い込んだ常人が、常人のまま遊戯王を楽しめるように軌道修正できたらな、というおせっかいおじさん記事だったと思う。

 

 

crowingspear.hatenablog.com

 

ファンデッカーじゃないからファンデッキを組めない

一方で、「デッキ構築をやめよう」を真に受けて救われる人がいたとするなら、「ファンデッカーになることを諦めさせる記事」になったとも見えないか。

 

狂いたくて狂いたくて仕方のない常人にとって、「狂わなくてもいいよ」は「お前はファンデッカーの器じゃないよ」と同じ意味だ。なんと冷酷。

今なら言える。狂人になれたのは向き合い続けた人だと。

 

過去にワイルドヴァルチャーのデッキを組んだ。2016年、最初に組んだデッキはこんな感じだった。

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ランダム墓地肥やしで素材を叩き落し、馬頭鬼でワイルドヴァルチャーを蘇生。ワイルドヴァルチャーの効果をフルに使うことしか考えていない。ほかのカードでよくね?という外聞を意に介さないパワフルさが眩しい。リアル事情でも、人生で一番狂っていた時期だったように思う。なにより対戦がめちゃくちゃ楽しかった。

 

 

いろんなものが外側にまとわりついた僕が、2020年に組んだワイルドヴァルチャーがこれ。

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ワイルドヴァルチャーにしかできないことを客観的に突き詰め、ディアボロスシムルグ+RRネストという唯一性を見出した。

それはワイルドヴァルチャーにしかできないが、強みの一部をピックアップして残りを削ぎ落とすことだ。

再現性を高める狂気を持っているわけじゃないのに中途半端に回るかどうかを気にしている。賢そうにまとめたように見せたい感がレシピから伝わってくる。ダサい。つまらない。唯一性にかこつけて見た目を気にしているだけだ。

 

何かを失ったのではなく、いろんなものが外側にまとわりついた結果だ。その証拠に、デッキ構築の苦しさが前者の3000倍くらいだった。

苦しんで苦しんで作ったデッキを回して苦しむ・・・本当に、どうしてこんな道に足を踏み入れてしまったのだろうか・・・

 

それでも、狂気を掘り出してこのトンネルを抜けた人が、晴れてファンデッカーになったことはこれまでの思索から言って間違いない。

出力先のデッキがつまらなかったとしても、この苦しみは狂気を得るためのもの、向かうための成長痛だ。

ファンデッキを作ることではなく自分の理想とする狂気のデッカーになるのが目的なら、成果が得られなかったことを嘆くことはない。自分の内なる声を掴み取れそうになったことは肯定できる。現実と妥協するのは掴んだ後でいい。

 

どの分野でも、その道を究めた人は常人からすれば狂っているし、その前に大きな苦しみを味わっているはず。涅槃に至ったブッダみたいな聖人が今の時代にいたらきっと狂人に見えるだろう。

 

デッキ構築で苦しむ以上僕はファンデッカーではないが、この苦しみがファンデッカーへの道。

 

 

note.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そもそもファンデッカーってそんなに尊いものなの?」

 

また遠ざかった。