ColumPus

ColumbusのたまごColumnブログ

18日目 近代 現代 その次は

「近代的」は今っぽい、目新しい、みたいな意味に聞こえる。「近代的建築」と聞くと現代風の建物が思い浮かぶかもしれない。また「近頃の世の中」を表すのに近世という言葉も使う。

歴史上の区分では、時系列順に近世、近代、現代と並ぶ。

 

一方で日本語としては近世、近代、現代はどれも同じく「今の世の中」という意味で使われているようだ。

察するに、時代を区別するために古代と対比して近代という言葉が使われたのだろう。中世というほど遠くない過去を近世と呼んだのも無理はない話だ。

近代という言葉を使ってしまったために、次の時代の名前を悩んだ末に「現代」にしたなら面白そうだ。

 

昔大正モダン(現代)と言ったように、人が今存在する時代によって「近代」「現代」はズレていくのだろう。

だが、歴史的区分としての「現代」という言葉はどうか。次の言葉をひねり出す準備が必要だ。

英語でモダン(modern)から移り変わった時代を表すのにポストモダン(post-modern)という言葉があることを考えると「後現代」という言葉が近々誕生するかもしれない。

 

 

 

 

17日目 ColumPus、椅子の名前だった

変なブログ名が幸いしたのか、

ブログ名でエゴサすると、大抵コロンブス「Columbus」がサジェストされるが、それを除外して検索しさえすれば被りがない。

 

スペイン語で書かれた家具屋さんの椅子紹介ページを除いては。

f:id:crowingspear:20190918012645j:image

Columpus - Grupo A2

無難に良さそう。

16日目 自分と同じ=かわいい

SNSに流れてくるペットの動画犬には、の鳴き声に合わせて人間のセリフを字幕につけたものをよく見る。

 

毛布を落とす隙にどこかに消えた飼い主を鳴きながら探す犬。

手に握った餌1粒を引き当てるも、逆の手に10粒入っていて呆然とする犬。

オッサンみたいに寝転がる猫。

 

どれも、言葉でなく心の底からかわいいと思える。

 

このかわいさの源泉はどうも、「自分たち人間と同じだと感じられること」のように思える。

「かわいい〜!!やっぱり犬もそう感じてるんだね!」とは友だちの感想である。

 

人間と他の動物は本来別の生き物だが、「自分と同じ」と思えた瞬間、それに魅力を感じられるのではないか。

これに従えば、バリバリ働くできる上司がかわいいと思えるのも、「完璧人間にある親しみやすい(自分と同じ)ところ」を感じられるからだといえる。

 

これは自分と同程度だと思っているモノほど、かけ離れた点を見つけるとマイナスの感情が湧くのかもしれない。

可愛さ余って憎さ百倍とはよく言ったものである。

 

15日目 オブラートで本音を変える

オブラートに包む言い方をしていると、根まで優しくなれる気がする。

 

見当違いなことを言う人には「斬新だね!」

 

他の人の秘密を漏してくる人には「事情通なんですね」

 

すぐにマウントを取ろうとする人には「人と比べて向上心があるんですね」

 

後者の方を本音だと思う「本音のすり替え」をおこなえば、強い言葉は頭に浮かばない。

実際に言葉にすることでそちらの印象を脳に焼き付けるのである。

 

 

また、なかなか帰ってくれない客には「いい時計してますね」と言うといい。

 

 

 

 

・・・根が優しいと思ったのはもしかしたら間違いだったかもしれない。

14日目 「置換」する毒

中学の理科に「元素周期表」が出てくる。

一定の周期ごとに似た性質の元素があらわれるというもので、

たとえば原子番号11のナトリウムと19のカリウム、9のフッ素と17の塩素という「8番違いの元素どうし」は、それぞれ似た形の化合物をつくる。

 

似たものができるという意味で、それぞれは置換しあう。しかしながら「似ているから完全置換すればいいじゃない!」とはなかなかならない。

カルシウムと鉛は一部似た性質ももつ故に体内に吸収されやすいが、吸収された結果は天と地ほど異なる。

 

性質の近いもの同士を置き換えると、それが似ていれば似ているほど、「性質の違うところ」が原因で元とは変わってしまうものである。置き換わることができる故に身体に牙を剥くのが毒の一つの特徴である。

 

 

自分が成し遂げられなかったことを、同じ立場の人に託すと歪みが出るのも似た例だ。

 

こういう似たものを結びつけるたとえ話もまた同じではあるのだが。

13日目 何歳まで生きる?

人生計画のためには「結婚をするか否か」「車を買うか」「老後の生活」などの支出の条件を自分の収入と照らし合わせることが必要だ。

支出は「何に使うか」という「投資的支出」、「何歳まで生きるか」につながる「消費的支出」に分けられる。

 

「消費的支出」を考えるにあたり、「何歳まで生きるか」を自分で決められたらラクなのに、と思うときがたまにある。いくら余裕を持たせて生活すれば良いかがわかる。

「いざという時のために」取っておくお金の意義を軽視しているわけではないが、稼ぎのうち消費以外の部分で人生を充実させることに最大限使えたらいいのにと思えてならない。

 

徒然草」の吉田兼好は「長生き」に対して批判的である。

f:id:crowingspear:20190914025403p:plain

徒然草 第七段

長生きをしてゆっくりとした時間を過ごすうちに「生命への執着」余計なことを考える時間が出てきて、醜くなるというわけだ。

彼自身はなんと69歳まで生きているが、僕はそれ自身に矛盾を感じない。

高齢者の自分への投資先の少なかった時代にもかかわらず、「徒然草」は彼が50代のとき書かれた作品だ。また、肉体は滅んだかもしれないが、現代に読まれるほど作品を残した彼の第二の死はまだ訪れてはいない。

 

人生を充実させるための投資が大事という話。

兼好法師に言わせれば投資をやめたら何歳だろうと「醜い」と断じられそうだ。

そういう意味でも「肉体の長生き⇆幸福な人生」とは思えない。

いくらまで投資できるかは・・・やっぱり自分の寿命を知ってから決めたいと思う。

 

12日目 歩く

f:id:crowingspear:20190913021716p:image

考えることは歩くことに似ている。

 

僕は「当たり前にある物事」の意味を考えることが好きだ。 論理性に乏しかったり、頭が悪いせいで結論にたどり着けないこともあるが、考えずにはいられない機会が日に何度かある。本来の作業中に思いつくものだから、自動マルチタスク人間である。

その中でも、日をまたいで考える事柄を整理し、少しでも脳のメモリを確保するためにこのブログを書いている。

 

しかしながら「当たり前」に何か結論を見出そうとしても「当たり前」な答えしか出てこない。

「当たり前」は叡智の積み重ねなので、その結論については一人の人間がそうそう変えられるものではない。もちろんそれはわかった上で楽しんでいる。つまり、得られるゴールが目的ではない。「考えること」はつまり「入口と出口だけが同じ遊園地を歩くこと」なのかもしれない。