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ColumbusのたまごColumnブログ

13日目 何歳まで生きる?

人生計画のためには「結婚をするか否か」「車を買うか」「老後の生活」などの支出の条件を自分の収入と照らし合わせることが必要だ。

支出は「何に使うか」という「投資的支出」、「何歳まで生きるか」につながる「消費的支出」に分けられる。

 

「消費的支出」を考えるにあたり、「何歳まで生きるか」を自分で決められたらラクなのに、と思うときがたまにある。いくら余裕を持たせて生活すれば良いかがわかる。

「いざという時のために」取っておくお金の意義を軽視しているわけではないが、稼ぎのうち消費以外の部分で人生を充実させることに最大限使えたらいいのにと思えてならない。

 

徒然草」の吉田兼好は「長生き」に対して批判的である。

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徒然草 第七段

長生きをしてゆっくりとした時間を過ごすうちに「生命への執着」余計なことを考える時間が出てきて、醜くなるというわけだ。

彼自身はなんと69歳まで生きているが、僕はそれ自身に矛盾を感じない。

高齢者の自分への投資先の少なかった時代にもかかわらず、「徒然草」は彼が50代のとき書かれた作品だ。また、肉体は滅んだかもしれないが、現代に読まれるほど作品を残した彼の第二の死はまだ訪れてはいない。

 

人生を充実させるための投資が大事という話。

兼好法師に言わせれば投資をやめたら何歳だろうと「醜い」と断じられそうだ。

そういう意味でも「肉体の長生き⇆幸福な人生」とは思えない。

いくらまで投資できるかは・・・やっぱり自分の寿命を知ってから決めたいと思う。

 

12日目 歩く

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考えることは歩くことに似ている。

 

僕は「当たり前にある物事」の意味を考えることが好きだ。 論理性に乏しかったり、頭が悪いせいで結論にたどり着けないこともあるが、考えずにはいられない機会が日に何度かある。本来の作業中に思いつくものだから、自動マルチタスク人間である。

その中でも、日をまたいで考える事柄を整理し、少しでも脳のメモリを確保するためにこのブログを書いている。

 

しかしながら「当たり前」に何か結論を見出そうとしても「当たり前」な答えしか出てこない。

「当たり前」は叡智の積み重ねなので、その結論については一人の人間がそうそう変えられるものではない。もちろんそれはわかった上で楽しんでいる。つまり、得られるゴールが目的ではない。「考えること」はつまり「入口と出口だけが同じ遊園地を歩くこと」なのかもしれない。

 

11日目 決断疲れからの解放 2

  • 人間の脳は決断によって疲れる。
  • 決断には「無意識の決断」「意識ある決断」があって、このうち「無意識の決断」は「決断回数を減らす」ことによって疲れを軽減できる。
  • 「意識ある決断」はより長いスパンを見た決断になることが多く、同じようにはいかない

という話を8日目にした。

crowingspear.hatenablog.com

 

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決断をすることは、「天秤にかける」と表現されることがある。決断に必要なプロセスを、このことわざで喩えなおしてみると次のようになるだろう。

  1. 情報収集(天秤に乗せるもの=おもりを探す)
  2. 選択肢の列挙(何と何を比較するかを決める)
  3. 選択肢の採択(天秤におもりをのせる)

 

天秤にのせるおもりは、すなわち「決断するための要素」である。この要素は、「客観的な事実の要素」と「精神的な要素」に分けられると考える。「決断」自体はこのうちの「選択肢の採択」にあたる。

「精神的要素」同士や「客観的事実の要素」同士は、質的に似ているので比較しやすい。決断を難しくさせるのは、性質の異なるこれら二つふたつを天秤にかけなければならない状況である。

 

客観的事実は、それ自体が絶対的な尺度を持つものだったり、数字を伴っていて定量的に扱いやすいという特徴がある。一方で、心については「悲しい」「楽しい」など、定性的に把握することが多い。

精神的要素を定量化することが、決断を簡単にしてくれるという推察は大きく間違っていないように思う。

 

3に続く。

 

 

8日目 決断疲れからの解放 1

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人生は決断の連続だ。人は1日に数万もの決断をしているという。

そしてこれは人から聞いた話だが意思決定によって脳は「決断疲れ」をしてしまうらしい。行動に使うはずの脳のメモリを決断に使うからだ。

 

決断疲れを軽減させるには、「決断する回数を減らすこと」が一番だ。

やりたいことを順序立てて一つ一つ片付ける。

毎日やらなければならないことは習慣化して決断せずとも体が動くようにする。

同時並行で作業をするマルチタスクは決断の連続になるので出来るだけ避ける。Youtubeでもなんでもその方法を紹介してくれる人はたくさんいるので参考にしてみるといいだろう。

バカになりたくなければ、マルチタスク(MT)をやめなさい 前編 - YouTube

 

 

ところで、決断には2種類あると考える。「無意識の決断」と「意識のある決断」である。

 

マルチタスクが「今この瞬間どちらの作業をするか」という「無意識の決断」を毎分毎秒迫るように、「無意識の決断」一回一回は影響範囲が短い。

「サッカー選手がどこにシュートを打てばゴールを決められるか走りながら判断する」ような一瞬のものである。

積み重なって人生に影響してくるタイプだ。

 

「意識のある決断」は「晩御飯のメニューを決める」ような日常的なものから「志望校決め」や「転職するか否か」など、人生のさまざまなフェーズで現れる。

 

 

「決断疲れ」を軽減する話に戻ろう。

「無意識の決断」は「決断を減らす」ことで軽減できそうだ。無意識の決断の中には避けるべきもの、効率化のために省けるものがたくさんあるからだ。

一方で「意識ある決断」はそうもいかない。

 

軽視するという意味でなく、「意識ある決断」をラクにする方法はないだろうか。

 

後半へ続く。

7日目 書き続けるには

生徒時代の僕は「自由作文」が嫌いだった。

作文自体が嫌いだったわけではない。必要な知識を辞書やネットで調べ、文構成のテンプレに落とし込む手順に難は感じなかった。

書きたいテーマが全く浮かばないわけでもなかった。自分独自の感性・価値観は未熟なガキなりに持っていた。

その気持ちは恐怖に近かったかもしれない、と思ったのが、十年前後経ってまいにち投稿2019の7日目を迎えた僕自身である。

 

恐怖、といっても色々な言葉で表せるが、自由作文に限らず創作活動全般を「自分の身を削る行為」だと認識していたように思う。

「創作とは自分の脳の中にあるモノを外界にさらけ出すことである。作品という形で外に出た思考は自分から切り離され失われてしまう」。言葉にすればこんな感じだ。

 

去年のまいにち投稿でも、青春時代に経験したこのどす黒い感覚に苦しめられた。

見返してみると、豆知識や使っているものの紹介・自分の哲学などが合わせて5割ほどを占めていた。それらは、すでに自分の中にある知識を外に出す記事である。この書き方では、「自由作文と言いながら、書けるテーマは自分の頭になかで完結しているものだけになる」。30日連続でこの形式の作文ができるとしたら、彼は相当な雑学王だろう。

 

 

今年は、その日感じたことから着想して「外の世界について感じたことをエッセイとして出力する」ことにしているおかげか比較的ラクに続けられている。

自由作文を怖れていたころと比べれば、それを複数日持続できている今を誇りたい。

拙文ながら、このリハビリに今年もお付き合いいただけると幸甚の至りである。