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【まい投2020-26日目】デッキ構築は対戦から

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年の12月に「デッキ構築をやめよう」という記事を書いた。

crowingspear.hatenablog.com

個性を出したい(特にカジュアル環境の)プレイヤーが「デッキ構築」だけにウェイトを置いてしまいがちな理由の考察と、プレイングとプレイヤーの環境の2つからも自分の個性を見出してほしい願いを書いた記事である。

また先日「天と地の違い」という記事を投稿した。

【まい投2020-23日目】天と地の違い - ColumPus

少々長くてとっ散らかりが否めなかったので簡単にまとめたのち、「デッキ構築をやめよう」をこの視点からとらえなおしてみたい。

 

 

経験のない理解は他に憑依される

地続きの理解

は経験したこと+外から得た知識で物事を理解している。

これを空に向かって伸びる豆の木の蔦に喩えて考えた記事なのであった。

経験が地面にあり、自分の外にから得た知識を添え木にして蔦が広がっていく。その木全体を地続きの理解と呼んでいた。

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理解の蔦

人はフィルターを通して自分の外の現象を経験している。フィルター本来人それぞれ固有のものなので、経験は「自分のもの」である。
この経験に外からの知識が加わると、経験を手引きにした「自分のいる理解」「納得のある理解」が生まれうる。これが地続きの理解である。

経験を根に持つこの理解では、自分の主観に基づいて、外から来た知識どうしを自分自身がつなぐことができる。

自分のいない理解

一方、外から得た知識+外から得た知識での理解は、経験を根としていない。外の世界でどれほど理論づけられた語りであっても、ただ聞いただけでは根源的な理解ができない。その語りを経験した時と場所に自分がいないからである。結局は、「宙に浮いた理解」である。「自分のいない理解」「納得のない」理解とも呼んでいた。

 気に入った表現なので何度でも引用するが、つまりこれである。

「生壁色をもう少し暗く黄色くした色が根岸色です」と言われて、「ほーん、わかったわ」とはならない。「自分がみたこともない色」は理解につながらないのである。

【まい投2020-22日目】色を理解すること - ColumPus

こちらは、自分の外で知識同士が繋がれていて、そのつながりをまるまる頭に入れるものである。その意味で、知識を繋げる判断を自分以外の何かに明け渡している。言い換えれば、自己は他の者に憑依されているのである。

 

地続きの理解だとしても、木が天高く伸びると、経験+知識で行っていた地続きの理解が、知識+知識の「自分のいない理解」に近づいてしまう。

経験にさかのぼって理解するよりも、知識を1,2個さかのぼることを理解だと思う方が圧倒的に速いからである。その疑似的な理解は、本質としては「自分のいない理解」に近い。

 

「デッキ構築をやめよう」再考

 

 「天と地の違い」では遊戯王Advent Calendarで投稿した記事に言及した。

crowingspear.hatenablog.com

その柱としたのはこれである。

TCGプレイヤーとしての個性=デッキ構築×プレイング×環境

冒頭の繰り返しだが、個性を出したい(特にカジュアル環境の)プレイヤーが「デッキ構築」だけにウェイトを置いてしまいがちな理由の考察と、プレイングとプレイヤーの環境の2つからも自分の個性を見出してほしい願いを書いた記事である。

 

使う人が違えば

デッキを使ってやるのは対戦である。対戦するのは人で、人が違えば対戦の過程も結果も変わる

個性を見失うのは、「主観を他の判断基準に明け渡してしまう」ことで起こる。

デッキレシピがSNSや動画にアップされ、ある意味での正解や最適解のようなものが万人に見える場所に置かれている。また遊戯王Wiki遊戯王ニューロンを使えば、個別のカードテキストや簡単な活用方法は誰でもすべて知れるようになっている

 

実際のところ、デュエル動画や大会入賞レシピには、その構築に至ったストーリーがある。ストーリーは組んだ人間が経験によって積み重ねてきたもの。その人間の経験が唯一無二だから、そのプレイヤーに個性が認められている。レシピだけ見た場合、その環境やプレイングが排されている。その意味で言うなら、レシピだけのコピーには、デッキとしてだけ見れば個性はない。

テキストだけから決まるコンボに個性を見出せないのはこの「自動的に決まる」感覚があるせいだとにらんでいる。その感覚が主観から判断基準を奪い、どんなコンボを盛り込もうとも個性を見出せなくなる。

「自動的に決まる」感覚は、喩えが難しいが、「深海のディーバが出てきたら先攻ワンキルじゃん」「VHEROファリスがないとHEROとは言えなくない?」などというデッキのストーリー=組んだ人の経験を排した感覚である。

カードプールや漠然とした正解等の「外からの知識」がデッキを組ませる状態では、

経験の積み重ねて作った地続きの理解の発露であるべきデッキが、単なる知識に成り下がっている

個性はプレイヤーの側に宿る

カードプールがデッキを組むのではなく、実際に対戦で使って試行錯誤した自分が、自分のプレイングや対戦環境から感じたことをもとにしてデッキを組むのである。

「カード1枚違えば違うデッキ」という言葉は真実に近いし、よしんば全て同じカードでデッキを組んだとして、プレイングやその環境が違う以上同じゲーム内容になることはない。

 

 

対戦ってみなくちゃわからない

本来的に個性はフィルターに由来するので、個性を知りたかったら「真実を認識するときのクセ」を探求する必要がある。その探求は経験を積み重ねることで進む。10日目の記事で言ったことである。

xという新しいことをしてみたら、自分はf(x)という気持ちになった」ということだ。よく知る言葉に直せば、「入力値と出力結果」は一つの「経験」である。 自分を完全に知るのは難しいかもしれないが、経験を積み重ねれば自分の解像度が少しずつ上がっていく、ということだ。 そう考えれば、「やってみなくちゃわからない」という言葉は「結果」だけではなくて、「それを出力する自分」にも言える。 xに何か入れて結果を得ないことには、箱の中で何をやっているかを求める問題を解くことはできない。 わからなかったらとにかくxに何か入力してみよう。自分に対してそう思う。

【まい投2020-10日目】ブラックボックス - ColumPus

 

経験を根に持って「地続きの理解」をしている限り、主観は自分のもので居られる。

TCGプレイヤーにとっての「経験」とは、とにかく対戦である。

対戦をして環境を知って、対戦をしてプレイングを知る。そっちだけでも個性はあるよ、という本筋は去年から変わっていない。

思うに、知らないこと・至らないことも個性である。理想に対して不十分でも、目指し続ける限りそれが途中過程の自分である。

「デッキ構築をやめよう」と書いたが、今の自分なら「デッキ構築から自分の個性を見出すカギは対戦だ」と理解している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【まい投2020-25日目】8掛けは波から

世の中100%期待通りにうまくいくことはなかなかない。物事には波がある。

その波のピークを捉えられた時しか、100%はゲットできない。ピークは絶頂の状態。一点しかないことがほとんどだが、人が広がりのない一点を捉えることは不可能に近い。

期待通りにいき易いことは、その波のピークが横ばいで続くことを意味する。それもほとんどなさそうだ。

 

ある範囲を捕まえられたらヨシ、と思うことである。波が単純なサイン2乗カーブだとしたら、ピークの8割以上のをゲットするためにはだいたい周期の3割くらいの範囲を捉えてやればいい。

【まい投2020-24日目】他人と他人さん

「他人」という言葉でコミュニケーションの行き違いがあった。

家族内での話。僕が「他人」という言葉を使ったとき、「なんでよその人の話をするんだ」と返ってきたのだ。

僕は驚いた。僕自身は家族の話をしているのに、違う伝わり方をしている。

僕が”家族の中での他の構成員”という意味で他人という言葉を使った一方で、返した人は”他人=身内以外の人”だと感じてしまったのだ。いわゆる「他人さん」である。

言葉を補うことで解決はした。しかしどちらが間違えていたとかいう話ではない。どちらの意味も辞書には載っている。僕と返した人がそれを知らないわけでもなかった。

 の解説
  1.  自分以外の人。ほかの人。「他人まかせの態度」「他人のことはわからない」

  1.  血のつながりのない人。親族でない人。「赤の他人」「遠くの親類より近くの他人」

  1.  その事柄に関係のない人。第三者。「内部の問題に他人を巻き込む」「他人の出る幕ではない」

  2. 他人(たにん)の意味 - goo国語辞書

 

葉の意味の理解は1点で決まるのではなく、面積を持った円みたいなものだと僕は考えている。理解が広がりを持っているので、言葉の意味に含みを持たせられる。

人によって言葉に対して持っているコアな意味は若干ずれていて、言葉を聞いた時、ひとはまず円のコアの部分で意味をとらえる。だからその言葉を聞いた時の印象が人によって違うのだと思う。

結局のところ、僕はを、返した人は「他人」という言葉のコアな意味だと思っていたのだろう。悲しきすれ違いである。

 

じものを見ているのに感じ方が違う原因、「フィルターの違い」をまざまざと見せつけられたエピソードだった。5日目で書いたことの実例である。
crowingspear.hatenablog.com

 

【まい投2020-23日目】天と地の違い

 い色という「実際に見た色」・赤色という「知識としての色」の違いを例にして、「経験+知識」の結合が地続きの理解をひろげていく、という話をしたのが昨日の記事だった。

crowingspear.hatenablog.com

 

面にある経験から、空中にある知識が添え木となって、知識を辿りながら天に向かって伸びる「豆の木」。以後では、理解の広がりをこうイメージしながら書く。ここでは、知識を「伝聞によって得た概念」としている。

 引用元にある地続きの理解とは、豆の木の茎や蔦の部分のことである。経験は自分が目に入れた真実を、自分固有のフィルターに通して解釈したものであった。その意味で、地続きの理解の蔦には根底に「自分がいる」。経験があることによって、「納得して」「腑に落として」理解できる。

 一方、「知識+知識」による知識拡大についてはこう書いた。

知識と知識の結合には、「自分」がいない。自分の理解ではなく、「知識が考えた理解」である。自分の存在が判断の場から滑り落ち、知識に主観を明け渡してしまう。

【まい投2020-22日目】色を理解すること - ColumPus

知識は、それ自身では自分の経験由来のものではない。よって、理解していない知識と理解していない知識をつなげて地続きに理解することはできない。こちらの理解は、「自分のいない」=「納得のない理解」である。

「生壁色をもう少し暗く黄色くした色が根岸色です」と言われて、「ほーん、わかったわ」とはならない。「自分がみたこともない色」は理解につながらないのである。

【まい投2020-22日目】色を理解すること - ColumPus

納得した理解には、必ずどこかで自分の経験と地続きにつながっている必要がある。

 

が地続きの理解を広げているといっても、理解を拡大するときに人が毎回経験から辿って考えているか、というとそうでもない。

雲にまで届くような高度に複雑な知識を理解に収めるために、近いところにある既存の知識を足掛かりにして理解の蔦を伸ばすのである。

「99×2」の計算をするとき、下向きに

  1. 「筆算を用いる」
  2. 「筆算で実際に計算しているのは90×2+9×2」
  3. 「9×2は9+9」
  4. 「9+9は繰り上がりの計算で10+8といっしょ」・・・

と辿って「りんご1個とりんご1個で2個になる」という経験に行き着くわけだが、実際には2番目くらいまでしか意識しない。経験まで降りて理解するより、人から聞いた知識に乗っかるほうが圧倒的に速いからだ。一方経験したことから辿って「腑に落とす」のは非常に時間がかかる。地面より上の添え木から知識を引き出し、その一段上にある知識に蔦を伸ばしているのである。

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理解の蔦

り高度な知識を理解しようと思ったなら、地べたの経験からはるか上空の添え木を使って蔦を伸ばす必要が出てくる。

ここから見ると逆に、経験したことは雲のはるか下である。経験を手引きに広げていた理解から、経験が薄まる。「経験+知識」の理解から、「知識+知識」の理解に近づく。つまり「納得のない理解」に近づくということである。そして遠ければ遠いほど、納得しにくくなる。

99×2の話で例えるなら「筆算の計算方法はわかるし9×2もわかるけど、なんで筆算したら答えが出るの?」という理解状態である。筆算は一応できるが、腑に落ちないまま問題を解くことになる。

 経験からはるか遠い添え木を基準にした理解が「納得」しにくくなっていくのである。

 

験から離れた場所にある知識を基準にして理解を広げるのは、「PCにない文書をクラウドから持ってきて編集する」ようなものである。知識が高度に複雑すぎて経験から辿れずに、自分の外にあるものを手引きにしてしまうのである。そうなると自分の固有フィルターではなく、外部のフィルターから情報をインプットしてしまう。

バーチャルリアリティ」みたいな新しいワードが哲学的なものの理解にすごく役立つので、この時代に生まれてよかったと思うことがよくある。

 フィルターは各々の個性だという話をした。

【まい投2020-4日目】画像について考えた思索 - ColumPus

 

ラウド化された知識をインプットする際に個性を失ってしまう現象は、去年の「遊戯王Advent Calendar」の記事にて考えていた。

crowingspear.hatenablog.com

TCGでデッキを組むときに、その基準が対戦ではなくツイートや動画サイトに上がったデッキレシピになり、自分の経験から隔絶される。しかもデッキレシピは、プレイングや環境などの経験を伴わないとわからない情報に比べると、圧倒的にインプットが早い。もともとデッキを組んだ人間の経験を出発点にして、その人の環境やプレイングのクセに応じた思考のストーリーがあってそのレシピに至っているのに、漠然とした「最適解」を頭の中に作り出す。

「ブンボーグ003を出したらアウローラドン経由でもっと展開できてワンキルいけるじゃん」「ミストバレーの幼怪鳥はいってたらドラグニティじゃないじゃん」みたいな、攻撃的な視線が自分にも他人にも向き、デッキを組むのをどんどん苦しくする。

 自分の経験や対戦から理解したのではなく、「ブンボーグ003を使う場合の最適解」「環境デッキという名の何か」「幼怪鳥を使う誰かやつ」などという実体のないものに憑りつかれ、主観を「何か」に明け渡してしまっているのである。

憑依している「何か」は、「自分の内側に潜む自分以外の者」として主観を奪い、自己分析で自分を傷つける。16日目の記事を参照されたい。

【まい投2020-16日目】プラネタリウム 内から見るか、外から見るか - ColumPus

 自分のいる環境を知って、対戦を繰り返す中で経験からデッキを作り上げることで自分だけのデッキを作り上げることができる。個性的なデッキを作るにはまず自分を知るところから、という趣旨なのであった。自分を知るにはまず経験からなので、これは10日目の記事にもつながる話である。

【まい投2020-10日目】ブラックボックス - ColumPus

 

験から遠い知識が多いほど、頭でっかちで倒れやすい木になる。

これを避けるには、同じ高さの経験を増やすか、山みたいな標高の高い地面で経験をつむのがいい。「りんご1個とりんご1個で2個になる」という経験だけから掛け算を理解するのではなく、「みかん9個入パックを2つ買ったら18個」という経験を、「掛け算を理解する足場」として加えれば、より幹は安定する。

こちらの経験は、「より高度な経験」と言えばいいだろうか。

 

から教えられたもので自分の価値観が作られている以上、人は根底では憑依されて生きている。言葉ですら思考にフィルターをかける原因になる以上、完全に払しょくすることはできない。だれも純粋な自分を完全には知らない。

街頭インタビューを受けると、テレビで見たインタビューみたいな答え方を意識するし、いつの間にか受け売りの話をしてしまうものだ。それは人から伝え聞いた身の振り方であり、インタビューを実際に受けた経験から理解したものではない。そのどれが経験からつながって理解したものなのか、日常で意識する機会がない。実質、天と地がつながっていないのだ。

フィルターを一度取り去り真実に迫る、「地に足の着いた理解」を手引きに、自分であるところの自分を見失わないようにしたい。

 

【まい投2020-22日目】色を理解すること

たちの視界にはフィルターがかかっている、という話をしたのが今年のまいにち投稿の4日目である。

そのフィルターのおかげで、同じものを見ても同じように見えているわけではない。

その見え方のクセが個性そのもの、という論旨だった。

【まい投2020-4日目】画像について考えた思索 - ColumPus

 

ンプットにかかるフィルターには、情報が脳に至るまでの目や神経も含まれる。神経を電気信号として通った情報は脳にて視覚情報に再変換される。神経の伝達のクセや、脳内での再変換時のクセによって、「思想・哲学を挟む間もなく」見えているものは変化する。

景色の見え方の思惟外での違いは、「形によって認識しづらい」等いろいろあるが、イメージしやすいのが「色覚」の違いだ。

「色覚障がい」という障がいを持った人がいて、多くの人が認識できるような「色の違い」を識別できなかったりする。そのような人にもみやすい配色で作られたイラストなどは「ユニバーサルデザイン」の一種だ。

他の方の記事だが、いらすとやのイラストでこの感覚を解説した記事がわかりやすかった。

memo.ark-under.net

 

がいを持つほどでなくとも、細かく見れば「色覚」は一人一人違う。

赤色」を想像したときに、Aさんには「あかい色a」に見えるし、Bさんには「あかい色b」に見える、というイメージである。

ここで、「あかい色c」を見ているCさんがそれを指して「これは赤色ですか?」と聞いたときに、AさんもBさんの眼にはそれぞれ「あかい色a」「あかい色b」が見えているけれども、2人とも「はい、赤色です。」とこたえるだろう。

どんな人も、例えばAさんも、実際に見えているあかい色「a」と、概念としての「赤色」をリンクさせている。

あかい色a」は実際の経験だが、「赤色」という概念は他人がそれを「赤」と言っているのを見てはじめて知ることができる。

そのときAさんにとって「赤色」は「あかい色a」に色づき、色のついた「赤色」として、景色を判断するフィルターに加えられる。仮にAさんの色覚をBさんに一時的に与えたら、Bさんは「あかい色a」を赤色として認識できないだろう。Bさんにとっての赤色は「あかい色b」だからだ。

 

こで着目するのは、人から与えられた「赤色」という概念が、Aさんの主観に入り込むということだ。赤色=「あかい色a」という観念を持ったAさんは、それを手引きにして色を識別する。Aさんが「あかい色」を見たら、「赤色よりは少し薄めだ」と言うだろう。

自分が経験したことが知識と結合すると、それを手引きにして別のことを判断することが可能になる。「りんご1個を持っているD君がおかあさんからりんごを1個もらったら2個になる」というD君の経験が「1+1=2」という知識と結合すれば、「1+2」もりんごを手引きにして計算することができる。

 

 

験と、経験していない知識と結合させることによって理解を拡大していくことができるのである。こうして作られた理解に仮託して、人は次の理解を形成していく。

理解に知識が混ざり、次の理解が生まれる。その根っこは自分の経験である。

つまり、理解は経験+知識または理解+知識の形をしている。経験を根にしているので、「経験を手引きとして」地続きの知識形成ができる。

経験したことを積み重ねるだけでは、人は自動車に乗れないし、硬い屋根付きの家に住むこともできなかっただろう。このような「経験を手引きにして理解すること」が人間の進歩のエンジンになったのは間違いない。

 

は、知識+知識の結合は理解と呼べるだろうか。

「生壁色をもう少し暗く黄色くした色が根岸色です」と言われて、「ほーん、わかったわ」とはならない。「自分がみたこともない色」は理解につながらないのである。

知識と知識の結合には、「自分」がいない。自分の理解ではなく、「知識が考えた理解」である。自分の存在が判断の場から滑り落ち、知識に主観を明け渡してしまう

「主観を明け渡す」については、別の記事で書きたい。

知識の拡大と理解の拡大には違いがありそうだ、というところまでは記しておく。

 

【まい投2020-21日目】寝落ちにつき

寝落ちしました、クラバト殴るの忘れました。

夜に書いてるので記事も未完成のままでした。

今日の自分にごめんなさい。

朝一に失敗がわかってそのまま1日引きずる悪いクセがあるので、断ち切る意味での記事投稿です。

 

逃げないためにセルフ魚拓とっときます。

今後は「クラウド化」と「好奇心」について書く予定があります。完成したら今日投稿、しなかったら今日は別の記事を書くつもりです。

 

 

【まい投2020-20日目】波

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の回りにはたくさんの波が飛び交っている。人はその波を情報として受信する。

聞こえてくる音は空気の疎密が波になって鼓膜に届く。目で視えているものは電磁波の一種である光となって網膜に映った像が元である。

情報は電気信号に変換され、波として神経を通って脳に届く。波のおかげで私たち見たものに対して感動したり、感じたことからあれこれ判断ができるわけだ。

 

には無限に情報を詰め込める。どんなに複雑な形の波も、それよりも簡単な波の重ね合わせで表現できる。オーケストラの楽器が奏でた一つ一つの音が一つの音楽になって私たちの耳に届くように。

 

たちが外界から受け取る情報は単純なこと一つ一つの、無限の重ね合わせである。どれだけ混沌とした世界に見えても、重ね合わせである以上、理論上それらは不可分ではない。

人間の中身も同じだ。悲しみも喜びも電気信号として神経を走り回る情報である。気分は単純な一つの感情から成り立つことはほとんどなく、色んな感情の重ね合わせが一つの気分として感じられる。そして同様に、重ね合わせである以上もとは分けられているものなのだ。

 

雑な波形を見たときに、どんな波の重ね合わせであるかを知るには、「波の形」をたくさん知っている必要がある。

掛けて24になる数字の組み合わせについて、1×24しか知らない人と、4×6や3×8も知っている人では24という数字から得られる情報量が違う。

同じように、「好きだ」という気持ちについて「自分にとっての異性に魅力を感じること」という狭い観念しか持っていない人には、それ以外の気持ちの重ね合わせがあることすら想定できない。よしんばその気持ちに何か別のものが混ざっていると感じることができたとして、ノイズだと思うだろう。

 

ね合わさって複雑になった波が人の気持ちの元となっているのであるが、一つ一つの気持ちがどんなものか知っている人ほど気持ちを分解し、全体のとしてそれがどんな気持ちかを理解しやすい。

逆に、知らない人ほど自分の気持ちを分解したり全容を掴むのが難しいこともわかってくる。

 

もそも「悲しみ」「怒り」「功名心」などという言葉を使っている以上、人にはこれを分ける能力が備わっていることは自明なのであるが。