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【まい投2020-67日目】フィルターを外すことについて【5日目の再考】

5日目の記事にフィルターについて書いた。
フィルターとはメガネの度や色のように、認識や価値判断に差しはさまるクセを指した。
そしてフィルターはわたし自身を知る手がかりになり、手始めにフィルターを外していくのがよい、と結論付けた記事だ。

まだ5日目で言葉の使い方があやふやだったりするが、大意は同じなのでここに紹介する。(今がしっかりしてるとは言ってない)

「すべて高貴なるものは、稀であるとともに困難である」という名言があるように、「真実」という絶対的なものに迫るには、フィルターを知るところから始めるしかない。 「フィルターが何なのか認識すること」は「偏見をこえて真実をみること」なので、同時に自分の個性を知る手がかりにもなるのである。

【まい投2020-5日目】真実はいつも一つで多重的 - ColumPus

はや67日目。この記事からもう2か月経とうとしているが、この間のまいにち投稿から重ねて得たものを手引きとして、5日目の記事を別の言い方で表してみたい。

自分から見て「わたし」はブラックボックスであり、経験を代入して得られた結果を寄せ集め、連立させることでわたしの解像度を上げられる、という主旨で10日目の記事を書いた。
crowingspear.hatenablog.com
経験から直接「わたし」がかたどられるわけではなく、経験から「わたし」の存在を「間接的に」知るのである。

経験は、第一義的には世界のうちに存在するわたし以外の存在者を発見することである。
ここで世界は「わたし」の存在が現れる場所のことを指す。この定義から明らかに、「わたし」は世界の内に存在している。
経験をもとに、「わたし」という行為の主体を含んだ世界観を作るのがPhilosophyたる哲学である。

ここから行為の主体にフォーカスしていくと、自分の行動原理を追い求める道徳や倫理に至る。道徳には必ず行為の主体が付きまとう。誤解を恐れずに言えば、「わたし」がいないところには行動原理は生まれないし、それを追究する倫理も生まれない。「わたし」はフィルターを通して世界を観ているわけなので、わたし特有の行動原理はわたし特有のフィルターをもとに作られる。だからその世界に向いたフィルターを調べていくのが倫理ということになる。

逆に「わたし」のフィルターを排して、遠景としての世界の根本原理を探求するのが多くの学問で、その一つの姿勢が科学である。学問はどこまでも「わたし」のフィルターを取り去り、「誰が見ても同じ世界観」を目指している。誰が見ても同じ世界観はつまり客観で、その視点にはわたしがいない。

冒頭の引用に目をやって、5日目の記事を書いていた過去の自分を思い返してみると、「わたし」特有のフィルターを個性と言い表していた。一方で「真実」という絶対的なものが、この記事で言うフィルターのない世界観に対応している。
(いま思えば客観的が絶対的かどうかは世界観によって違うのでかなり怪しい書き方だった。一方で自分自身そういうフィルターを持っていたと今自覚できた・・・。)
いまここで新しい言葉で5日目の記事を言い換えるなら、フィルターを知るにも、フィルターのない客観を目指すにしても、冒頭の引用の通り、まずは「フィルターを外してみること」である。