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ColumbusのたまごColumnブログ

【まい投2020-50・51日目】迷子のわたしを探しに行かなきゃ

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人は往々にして、モノ同士の関係式から理解を進めている。

たとえば

  • 「おにぎりはうまい」→「外国の軽食、にパンを使ったサンドイッチというものがある。」→「パンと同じ炭水化物のご飯で具をサンドしてもうまそうだ」

みたいな感じである。「おにぎりはうまい」という経験から類推をして、「サンドイッチの在り方」を解釈する。

この時、おにぎりという、経験と繋がった既知の観念が、未知の「サンドイッチ」の性質との関係式を作っている。

このような理解はどうだろうか。

  • 黒鉛は炭素だ」→「ダイヤモンドも炭素らしい」→「ダイヤモンドも黒鉛みたいなありふれた元素からなる」

黒鉛が炭素だ」というのは、何かを読んだり人から聞かないと得られない情報だ。元素の名前自体は自然には存在しないからだ。(黒鉛もダイヤモンドもその名前はありこそすれ、モノとしては実在している。)

となると、「黒鉛は炭素だ」は体験ではない。自分が存在者から覆いをとって発見した情報ではない。あくまでも人伝の知識である。その知識に乗っかって「ダイヤモンドも炭素だ」という観念を作り上げる。
ここでも、黒鉛とダイヤモンドの間の関係式を作っている。

既知Aと未知Bの関係式を作ることが「Bを理解したこと」とみなされているのである。
実のところこの理解は、「Aから見たBの観念」であって、「私から見たB」ではない。
自分が覆いを取って発見したBではなく、誰かの頭の中のBである。

「ダイヤモンドもありふれた元素の炭素からできているらしい」という理由で「ダイヤモンドはつまらないもの」と判断するのと、
実際にダイヤモンドを見た後に「ダイヤモンドはつまらないもの」と判断するのでは、理解の質が違うことはわかると思う。


「関係式」は後者の方法の理解を助けてくれる。特に誰から見ても「そうである」客観の世界の理解とは相性がいい。科学という客観的方法で世界を見る時、社会・人文・自然の分野に問わず「関係式」が出てくる。

「関係式」からは主観が滑り落ちているため、その視線は、主観をベースにした視界にはピントが合っていない。言い換えれば、主観への解像度が低い。それだけで形成された理解からは「自分がそれを好きか」みたいな固有の価値判断がいなくなる。

いろんな知識を得たあとで、知識が理解を、経験のない=主観のない関係式へとすり替える。知らず知らずのうちに、関係式が価値観を形成していく。

「この人と一緒にいたいから結婚する」という主観に基づいた行動が
「みんな結婚してる」→「わたしも結婚するものだ」
という「だれか視点」の行動規範にすり替わる

という例を考えると分かりやすい。

理解したことに対して自分固有の価値観を与えられず、はじめにいた「わたし」は、いつのまにか居なくなってしまう。

好きだったプリキュア仮面ライダーが「え、まだそんなの見てるの?」という友だちの一言が原因で「こども向け」の番組に成り下がるのも、「仮面ライダーはこども向け」という関係式が理解できてしまうからだ。
また主観を失うと、メリットデメリットをたくさん調べても、優先順位をつけられなくて決断できなくなる。

「一番好きなことなんだったっけ?」状態である。
主観から離れた関係式に囚われ、固有の価値観をかき消すように考える癖をつけてきた人にとって、これを取り戻すのはとても難しい。
「〜だと思う」から目を背け、「事実」と「事実から言える確実なこと」に目を向けようと努めてきた人のことである。「〜だと思う」わたしは、この時点で迷子になっている。

その上で、「迷子のわたしを探しに行かなきゃ」と思うなら、湧き出る気持ちを、主観の介在しない関係式から取り返す必要がある。

「関係式」は、画用紙帳をもらって思うままに絵を描いていた瞬間や、テレビにかじりついてヒーロー全体を見たり、お菓子を買ってもらえなくてただをこねていた頃には、きっと無かった。
また大人でも、趣味に没頭できている人は、「関係式」なく楽しむことができるように思う。


https://itunes.apple.com/es/artist//660597238:ハートイロトリドリーム/彩瀬なる

【まい投2020-49日目】どうせ神の子

誰かに理不尽な思いをさせられた時、「どうせ君も神の子だろ?」と思うようにしている。

 

僕は神のことを物理法則だと思っているので、「そんなこと言っちゃってるけどキミ、空飛べないでしょ?」「ロードローラーの下敷きになったらブッ潰れるでしょ?」みたいな意味合いで使う。

 

「神」だとか仰々しいものを使っているが宗教とかそんなものは関係なく、「不愉快さに付き合わないようにする」ことがその本質である。

 

神様は、救うために存在しこそすれ、苦しくなるためにいるのではない。

「それでは成長できない」とかそういう頭でっかちな指摘は粉微塵にする。健康に生きる方が断然上だ。

 

実際のところ、その神が、人が抗えない何かならなんでも成り立つ。

・「筋肉は裏切らない」

・「金で買えないものはない」

・狩猟の免許を取ること

・論理武装

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なんでもいい。何よりまず、自分の心が生きるのが最優先だ。人に迷惑をかけないとか、達成した方が「望ましい」ことはもっと後でいい。

個人的には肉体が生きていることさえ、優先順位は後でいいとすら思っている。

【まい投2020-47日目】遊びで趣味やってるわけじゃない

「遊び」という言葉は、「空間的なゆとり」という意味を持っている。

よく知っている方の「遊び」は、本業に対して持つ時間的・精神的なゆとりというイメージがつきまとう。

 

結局「遊び」が(仕事を)しない、という否定で作られたイメージの言葉である以上、それ自体が本業に配慮をして初めて成り立つ動詞である。

 

似たタイミングで使われる言葉をあげてみよう。

娯楽は慰みをして楽しむこと。リラックスは緊張から緩和すること。余暇は仕事の間の可処分時間。フリータイムのフリーは「〜から離れた」という意味である。休みは活動しない時間のこと。

どれもこれも没頭できていない。「長く生きるためには仕事が第一やるべきことだろ」と言われてしまえば「ぐぬぬ・・・」と唸ってしまうのだが、「仕事のために自由時間を過ごしている」みたいなのは癪にさわる。俺は仕事のためじゃない、やりたくて趣味をやってるんだ。「遊び」だけで趣味をやってるんじゃ断じてない。

 

 

趣味・・・🤔

 

趣味は「個人の好み」という意味だ。そこに「本業」みたいな他のものはなく、没頭してる感がある。

確かに趣味は、遊びのようなリラックス効果・ストレス発散が期待できるけれども、第一義的には趣味は遊びではない。

 

余暇の過ごし方は簡単に探せるが、無趣味な人にとって趣味を探すことはやはり難しいのである。特に趣味を「遊び」と混同している人にとっては。

【まい投2020-46日目】はぁ・・・まだ物理法則なんてものに囚われてるんですか・・・

世界の理解の仕方は人それぞれ微妙に違う。多様性が認められ始め、その感覚が広がってきた。

その中で、「はぁ・・・まだ物理法則なんてものに囚われてるんですか・・・人によって物理法則は違うんですよ!?(意訳)」という言説を目にした(ツイッターで)(どのツイートが忘れた)

 

自分も「人それぞれ見ているものが違う」という、一見似た意見を宣っている。その中でこれを見て、あまりにもラディカルな意見に衝撃を受けたので、自分なりに「何が人それぞれなのか」考えてみたい。

 

ここでいう物理法則とは、科学によって見つけられた法則か、法則を見出せる世界そのもののことだろう。

 

科学は、世界を見る「方法」の一つであって、その意味では宗教や個人の世界観と並列する。

よく勘違いされることだが、第一義的には、科学が世界の正しい姿なのではない。世界を理解するための道筋だ。扱うテーマが自然だったり社会だったりはするが、科学というアプローチの仕方なのは変わらない。

科学は、誰にとっても正しいと思われる素朴な(ア・プリオリな)ことからスタートする。暗に客観的な世界を想定している。

そこに「100の精度ではないけど」観測や事実の積み重ねで根拠付けをして、「多少の揺らぎは生まれるけど」数式とか言葉を紡ぎ、科学が成り立っている。

確かにまだまだフロンティアはあるし、より新しい価値観によって更新されたりはにする、未完成な翻訳機のようなものだ。

 

未完成といっても、観測の精度も、よく知られたテーマでは99.9999%まで高められていたりするし、より適切な数式や言葉で理論が書き直され続けている。

もし仮に、低く見積もって70%くらいの観測精度・10%の言葉のゆらぎで表された自然法則があったとしても、63%はだれにとっても正しいのである。

残りの37%が「人それぞれ」なのかというと、それも違う。

あくまでもどこまで世界の真の姿に近づけるかという割合だ。観測精度が向上すれば「人それぞれ」の割合が減るというのはおかしい。

 

「人それぞれ」が可能なのはせいぜい「世界そのものについての見え方」か「科学に対する考え方」くらいであって、「客観的な世界そのもの」や「科学という方法で言い表された法則そのもの」では断じてない。

「わたしだけ重力が地面から空に向いてるんですよ」みたいな、客観的な世界に介入する「人それぞれ」だとしたら、自分の物理法則で思うがままに飛び回る人間が世界中にいることだろう。

 

一個人がもつ自分の世界観と、自分以外にある客観的な世界観を混同していることがこの誤謬のスタートに思える。

その人の物理法則が人類の叡智の63%を上回れるなら、信じてみたくもなるが。

 

 

 

【まい投2020-45日目】囚われることは救い

人は何かに囚われて生きている。
【まい投2020-34日目】囚われているのは「誰」? - ColumPus
インプットした情報を言葉に変換して思考している時点で、考えを言語に預けている。
性別・職業・役職みたいな肩書の側に立った考えを持つことも、偉大な存在を信仰することも、自分が見聞きしたナマの情報にフィルターを掛けている点は同じだ。
囚われることが本質なので、それ自身に善悪の色はないことには断りを入れておかなければならない。


crowingspear.hatenablog.com
先日「プラネタリウムの世界観」についての記事を書いた。私たちの視界は真四角の画角ではなく、透明半球の中みたいになっているイメージをもっている。

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透明半球

透明半球儀セット (10セット組) | スマートスクール(スマスク)


囚われないことは、この透明半球の視界360°をすべて見ていることにあたる。すべて見ている以上、すべての情報を自分自身で判断しなければならない。パソコンをメモリ容量を超えて働かせいるようなことが往々にして起こる。こだわりなく見ることは、脳のメモリを圧迫するという意味で苦しいのである。

肩書や信仰みたいな自分を囚らえる存在は、半球内の視界を覆い隠してくれる。
覆い隠された範囲から入ってくる情報は、その「立場としての」フィルターがかかったものになり、考えることを減らしてくれる。
例えば、視界を半分預けられるくらいのフィルターがあったとする。「私の言うことを聞いておけばいい」状態だ。360°のうち180°を見なくて済むとなると、ぐっと楽になる。残り半分だけを自分で判断すればいいからだ。
その意味で肩書や信仰に囚われることは苦しみからの解放になる。

例えば、自分が観光地のお土産屋店員だとして、「Go To トラベルキャンペーン」が始まるというニュースを聞いたとしたら、お土産屋店員としてのフィルターからそのニュースを喜ばしいことの思うだろう。
何もフィルターを掛けずにこのニュースを聞くと、「医療従事者は・・・」「観光地の経済は・・・」みたいに考えることがたくさん出てくる。キャンペーンを出す側は立場に囚われない判断をすることが迫られているのである。
実際のところこのキャンペーンは沢山の要素の折り合いをつけて打ち出されたものだと思われるので、その大変さは想像に難くない。

【まい投2020-44日目】意識高い系は視線高い系

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他の人が遊んでる時間にテスト勉強したり、日常的に資格勉強してたりすると、「意識高い系」と揶揄されることがある。

この指摘で注目されているのは、努力することによる「自己アピールをしたがる虚栄心」である。

揶揄の仕方としては「まじめちゃん」という言葉の解像度高い版という感じだ。

 

意識高い系というワード自体は20年前から使われていたが、ここ10年間で特に嘲笑の意味で用いられるようになっている。

この指摘はある意味で正当性があるように思う。

今遊ぶ行動は、今目の前の快を得るのに一番有効である。「今」勉強しても、快は「今」得られるわけではない。自己投資が結果になるのは数週間後のテストの点数・数年後の自分の立ち位置・数十年後の生活である。

 

「1時間後に死ぬとして、TOEICの点数が上がる勉強をするのか」と聞かれた時にやる人はぐっと減ると思う。1時間後に「成果」が現れないことが確定しているからだ。「成果」がないのに何かインプットしても無駄だ。おそらくこういう考えなのである。

 

時間軸上の視野が近いほど、自己投資という行為は「成果」が得られず、快も得られない厳しい修行のように見えてくるわけだ。

自己投資は、「今すぐは苦しいかもしれないが、長い目で見れば「快」が大きい」ことを信じて行われる。

結局、視野が低くて近くを見れているか、視線が高くて遠くを見ているかの違いなのである。

 

視野が高ければそれでいいかというとそうでもなくて、足元の石に躓いてしまうこともある。

「将来宇宙飛行士になったら」みたいな遠くの狭い範囲をだけ見続けると、今の現実を見失いがちである。視線が高くなっても、広くなるとは限らない。

遠い未来を見るだけではなく、今目の前も見てやっと「視野が広い」になることはておきたい。

 

「中身がない」意識高い系は少し趣が違う。虚栄心をモチベーションに「今だけ自己投資(のふり)をしておこう」と言ってしまえば、それは「今だけ」の視野である。視線は当然低い。これは意識低い系であって、遊びから快楽を得るか、承認されて快楽を得るかだけの違いなのである。