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ColumbusのたまごColumnブログ

【まい投2020-63日目】おふとんポテンシャル・トラップホール

ポテンシャルとは潜在的に持つ力を指すが、物理学では特にその空間にはたらく場の力から個物が受ける影響の大きさを表す量である。

私たちが下に落ちるのも、地球という大きな質量を持つ天体がつくる重力場のせいだ。

重い物体ほど強く重力を受けるように、場の力を強く受けるための「適性」もある。
故郷に帰ってきた人は近づくほど駆け出したくなる。だから故郷という物体の周りには引力がはたらく、と言ったのはアリストテレスである。それもその土地が故郷のである人が近づいてきたときに受ける引力なので、土地の周りの空間には場の力が働いている、と表現できる。


部屋の中にもこのような場の力は働いている。



寝つきが悪い朝、お布団から起きるのにエネルギーを要したり、一度起きたのに二度寝をしにお布団に戻ってしまうことがある。
私たちをお布団にひきつける向きに場の力が働いているのだ。

場の力によって引力が働く場合、そのポテンシャルは中心に近づくほど低い。
また中心のポテンシャルが低ければ低いほど強い力でひきつけられるし、抜け出すのが難しくなる。そして完全に抜け出せなくなった状態を「トラップされた」という。
お布団に捕らわれやすいのはやはり起きた直後だ。
「おふとん場」を重力場に喩えるなら、私たちは朝ほど重い(ひきつけられる適性が高い)のだ。

抜け出せなくなるほどの魔力を持ったお布団の周りには、落とし穴(Traphole)のようなポテンシャルが形成されている。
これをおふとんポテンシャル・トラップホールという。

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おふとんポテンシャル・トラップホール

お布団が私たちをひきつけるとき、私たちはお布団に落下しているのである。

【まい投2020-62日目】ゲームとの付き合い方についての覚書|ゲームはあの日の勉強だった

それでもゲームが趣味ですか?

ゲームが趣味です。
ゲームと言ってもソシャゲRPGとスマホTCGしか触っていない。もともと筐体は持っていないし、FPS、TPSも苦手だ。リアルTCGはやるが、出歩くことが減って最近買いそろえる機会がなくなった。そのほかを強いて挙げるなら、休日や体力のある平日に友だちと通話しながらamong usをやる程度だ。本当にゲームが趣味なのか?
ゼルダの伝説とかFFに新タイトルが出て、みんなと同じスタートラインから1週間くらい詰めに詰めてゲームをすることはもともとない。僕の中の偏見では、ゲームの王道はこっちなイメージがある。
ぼくのやるTCGとかソシャゲRPGというラインナップを見るに、持っている知識量にモノを言わせられる、敷居が高くて自由度も高い「恒久的な」ゲームをやることが多いのかな。
運営からのアップデートに「お、新規出たんだ」といって胸を高鳴らせ、今の知識と照らし合わせながら「凶悪コンボみつけたwwwゲーム壊れるwww」とか言う。そして「新しい環境デッキ」と照らし合わせて、新規を自分の脳内プールに入れる。対戦で実現するまで持っていけるかは別の話。
多分これをやってる時が一番楽しい。新規来たらTLでわいわいやったり通話やLINEで緊急招集かける感じが僕にとってのゲームなのかもしれない。油断すると競技志向になったり「うまい」ゲーマーに擬態しようとしてしまうが、突き詰めるわけでもなく、結局はファンプレイヤーどまりだ。こんな付き合い方でも楽しんではいる。
誰も知らない中、SNSと隔絶された世界で手探りで道を切り開くよりも、誰かがすごさを知ってくれていることを前提とした「有識者気取り」がやりたいのかもしれない。これって趣味ですかね?

これって生徒時代の勉強との付き合い方では?

たくさんのビッグタイトル(教科)があって、一芸に秀でるもよし、手広くやって平均点にこだわるもよし。新規アップデートは毎週あって、フラゲをネタバレをして得意顔もできる。自分で学問書を借りてきて一晩没頭できる。ぼちぼちでも、やらなくてもまあ生きてはいける。(部活や習い事という、多くの中高生視点での)本業との比率を調整すれば、楽しむにも、惰性でやるにも付き合い方は無限通りある。ソシャゲと筐体ゲーの要素を一挙両得できるのが勉強だ。
付き合い方に自由が利くなかで、自分は結構勉強が好きだった。
授業で習った新しい知識を、その場で小手先の解釈を加えて「これってこういうことじゃない?」って友だちに披露するのがすきだった。素朴な物理公式を手に取って「これって宇宙の研究につながるんだぜ」などと言って曖昧きわまりない「ロマンが芽吹く前のつぼみ」を集めて、「ロマン」を手に入れたつもりになっていた。
思うに、純粋なフロンティアの探求よりも、誰かがすごいと言ってくれる前提の「有識者」でいることの方が好きだったのかもしれない。あれ?これって(以下略
それを「学問が好きで知的好奇心が強い」と勘違いできた結果、世界が広がって、幸せに存在できているとは思う。結局ファンプレイヤーどまりなんだけどね。やかましい。

今日はなんでこんな書き方なの

今日だけ書き方を変えてみた。購読している大好きなブログのスタイルである。
白黒(はぐろ)れむ様の「珈琲三杯|思索のための思索」というブログだ。
大好きなの理由は何個かあるが、その一つは全人類全方位に向けた「博愛」が感じられるからで、この記事はうなずきすぎて前転しました。
shirokuro-044.hatenablog.jp
僕の中ではこれが近いかな。恨み言に転化して真逆のこと言ってるみたいだけど、根底にあるのは全存在へのアガペーです。crowingspear.hatenablog.com

ふっかけたからには殴られる覚悟はできています

白黒れむ様の記事を読んでいつも思うのは、日常に思索が根付いている理由からか、硬い書き言葉のなかに(多分頭の中で一回音の情報にしていると思う)音としての言葉がリズムよく調和していて、生きた哲学を感じられることだ。
僕は読んだ本についての解釈をただ書き連ね、著者作者にビビりながら該当箇所を読みなおして投稿している。せっかく胃に入れた理解を口に戻して反芻している。だから書き言葉ばっかりの硬い文章になっているのかもしれない。
そこからの脱却「も」もくろんで、いきなり失礼してこんな引用をさせてもらった。
正直「お前誰?」って思われることを見越して、若干怯えながら書いてます。覚悟は・・・できてる。
shirokuro-044.hatenablog.jp

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【まい投2020-61日目】実在しない存在と自然

「自然」と聞いてまずイメージに浮かぶのは、流れる川、泰然と在り続ける海、そびえ立つ山、そして鳥やライオンなどの動物が生き生きとし、木々や美しい花などの植物が揺蕩う映像だ。

自然といえばかなり広範な意味をもつのだが、「人の手の入っていない、ありのままの姿」という自然の狭義の意味がコアにあるためにまず思い浮かぶ自然がこの映像となるのは不思議ではない。その対義語は人の手の加わったもの=「人工」である。

 

科学のなかでも自然を相手するセクションである「自然科学」の「自然」は、より広い意味だ。

狭義の自然は、実在するオブジェクト一個一個にフォーカスを置いている。

鳥やライオン・種々の木や草花は、取り出せば「生き物の一個体」という一個一個の実在だ。山や川や海は生物ではないが、切り取って一つのものとみなしているので一個の実在である。

 

これら自然の中にある存在が「ただ存在しているのでなく、何か原因があってそこに在るのでは?」と考える立場にいるのが「自然科学」だ。

もしかしたら科学という方法以外でもこのような信条があるかもしれない。とにかく、あくまでも自然を見る方法の一つが「自然科学」というだけのことだ。

 

自然の中に「山」という実在と「川」という実在があったとする。

「川が流れているのは山という高いところから水が落ちる力が原因だ」と考えたとするなら、

「山」という実在と「川」という実在のあいだに「原因」という実在のない存在が現れることになる。これは「重力」として知られているのだが、重力は一個の物としては目に見えない。

この原因という存在と「山」の間でも同じことを考えると、別の原因という存在が浮上してくる。自然内の実在「山」と「川」の間に存在するので、「原因」もまた自然の中のもの、ということになる。

 

自然科学の対象である広義の「自然」の範疇には、我々がイメージする自然の、「個物にフォーカスするということ」に加えて、実在する物同士をつなげる「原因」も含まれている。

この原因は自然法則とか言われることが多い。

人もこの中で生きる以上、その拘束を受ける。

だれも重力に逆らって生まで宇宙には飛び出さない。自然法則がそれを禁止している。

この原因を辿っていくと、人の手の加わっている範囲にも共通の原因が見出され、「自然」のカバーする範囲が広がる。

この程度広くなった自然は、「人工」のカバー範囲を全部含んでしまう。

その限りで、自然と人工が対立概念ではなくなる。

 

その昔、「神は自然である」と言った社会学者がいたが、聞き手が「狭義の自然」の話だと勘違いしてしまうと、神様とその辺に転がる実在が同列に扱われたと感じることになる。存在が全て目に見える個物だと思っていだ人は、(見えない神を信じているにもかかわらず!)神が俗におとしめられた、と怒ったそうである。

その社会学者がいいたかったのは「広義の自然」でのお話。根本原因たる神は実在を持たないが、存在はする。この区別ができていれば、同じ性質を持つ「原因」の数々の究極系を「神」と呼んだとしても何の違和感もないし、その権威が失われることもない。目に見えない神が「存在できる」のはむしろ、実在のない存在が認められるおかげなのである。

 

 

【まい投2020-60日目】書きたいのに書けない・・・?

まいにち投稿を続けてきて最近思うのは、アウトプットの出口が狭いとエネルギーが要ることだ。

日々のルーティーンが定まってきて、そこから除外した分の、書くための限られた時間や労力では、やめる決心をして、納得のいく記事をかいて・・・とする余裕がない。

本を読んでインプットはしているので、書きたいテーマがなくて苦しんでいるわけではないのだが、テーマによっては書くのに必要なリソースが日々の限界値を上回っていることが多くなってきた。

これが結構フラストレーションが溜まる。脱却できるアドバイスがあれば乞いたい。

【まい投2020-58・59日目】「性格をなおす」について

「なおす」という言葉を自分なりに解釈するとこうなる。
「時や場所の基準点の状態に立ち戻らせる」

「壊れたものをなおす」なら、壊れる前の時間を基準にして、その状態に戻そうとすることを言うし、
「間違った文をなおす」と言葉にすれば、なおされる文とは隔たった場所に「正しい基準」があると示唆される。
また少しややこしいが、「先天性の病気をなおす」のはその人に基準があるわけではないが、客観的に知られた身体の正常な状態というものがあって、そこに近づけることを指すので「場所の基準点への立ち戻り」である。

そして日常的に使う「なおす」は、往々にして立ち戻る「時や場所」が好ましいときに使われる。
壊れたものはなおったほうが好ましいし、間違った文はなおされるべきと思われているのである。
そして病気はもちろん、なおったほうがいいことの方が多い。


さて、「性格をなおそうと決意した状態」をそれぞれの点から考えてみる。

時の基準
  • 過去と比べて今の自分が好ましくない性格で、それを過去に状態に「なおす」

こちらは「復元」と言えば通じやすいかもしれない。
過去の自分手引きにして、ふるまいを戻すことで比較的楽に達成できると思う。

場所の基準
  • 自分の外にある「好ましい」性格の基準に自分を「なおす」

「矯正」と言えば通りがいい。歯の矯正は昔の自分の歯並びではなく、生きるのに適した形を基準としてなおすのである。

きれいな歯並びは「かみ合わせの良さ」で用いる基準の正当性を測れるが、性格の場合、めざす基準が適しているのかすら知ることが難しい。
今の自分の性格がわからない人は、スタートもゴールもない迷路に迷い込んだ状態だ。
よく知られている通り、歯の矯正には痛みを伴う。いわんや性格の矯正である。

「性格をなおせよ」と三者Aがわたしに要求する場合、要求される側からすると以下のようになる。

時の基準

言われた人が過去に持っていた好ましい性格に戻ることを要求する。

場所の基準
  • 要求された側の過去にはない「好ましい性格像」になおすこと

要求する側からすれば「復元」を促すのが前者、「矯正」を促すのが後者ということになる。

復元に向かう先は「Aが見たわたしの過去の性格」であって、「私の過去の性格」ではない。
自分の外にあるものが基準という意味で、わたしにとっては「復元」ではなく「矯正」となる。
「Aが見た〜性格」にはわたしの情報全体のうちAが認識できる分の情報しか盛り込まれておらず、その情報をA自身のフィルターによって色付したものが「なおせ」という要求の判断材料になっているのである。

Aから「矯正」が促される場合は、自分自身で思うのと同じように外側の基準に向かうわけだから、わたしにとっても「矯正」である。

自分の世界観から作った理想の性格像があったとすると、これは自分の経験に根差した「地続きの理解」にある。
自己認識で得た今の自分の性格をスタート地点にして、この理想に近づくために痛みを背負うのが場所基準での「性格をなおすこと」である。


そこに、第三者Aから「宙に浮いた理想」への矯正を突き付けられたとして、
それを自分の理解の中に収めてから、「自分の目指すべき性格像」として置きなおすなら、今の自分とつなげて性格をなおす筋道を立てられるだろう。

一方で、納得なしにその理想を目指すことは、いままで地面から連綿と積み上げてきた自分の性格を雲で覆い隠し、雲に生える木から空を見るようなものだ。しかし往々にして雲に実体はないのである。


10/6 分類まで進めたので、59日目はこの記事に追記する形で個々の「性格をなおす」について掘ってみたい。
10/7 追記済み

【まい投2020-57日目】よりもどしとy=x+sinx

悪い自分を変えたり、良くなろうと思って行動を始めたとき、かならず「よりもどし」が起きる。

数学の話を持ち出すと、
y=Ax+Bsinx
という形をイメージしている。
Aはよくなるスピード、Bはよりもどしの大きさである。
(周期も要素になるが今回は除外して考える)

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「よりもどし」のイメージ

こんな感じによくなったり悪くなったりを繰り返しながら、しかし全体としては良くなっていく。

だからよくなろうとしても以前の悪い癖が抜けきっていなかったり、筋肉痛が「よりもどし」として現れるのだが、それもよくなる過程の一つだ。
それを見て「私は変われなかったんだ」とあきらめてしまうのはあまりにももったいないし、「またか」と不当な評価が下されてまうとよくなる未来を摘むことにもなる。
「何をやってもつづかない」の原因の多くがこれな気がしている。

人によってはよりもどしが小さく、「後退」という形で表れないかもしれない。「停滞」したり、後退しないけど前進のスピードが鈍るだけという人もいるかもしれない。

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「よりもどし」で停滞する場合のイメージ

彼らにとっては「よりもどし」をそれとして認識するのは難しい。
だから「よりもどし」がいきなり自分に起こった時、また他人が「よりもどし」で一時的に後退した時に、それを許せず、無理解から自分や他人を傷つけてしまう。悲しいストイックさである。

よりもどしの原因は身体の周期的な変化に依存するので、ある程度はどうしようもないこととも思う。
逆に、波の底の部分で諦めてしまうのも、己の強さだけでどうにかできるものではない。
最近知った言葉だが、波の底にいるときにそのままフェードアウトせずに返り咲く力を「レジリエンス」というらしい。
詳しく知らないので話せることは少ないが、Wikipediaの記事を置いておくので是非読んでみてほしい。「何をやっても続かない」ひとのヒントになるかもしれない。
ja.wikipedia.org

【まい投2020-56日目】最低ライン

ルーティンにしたいことがあって、それを続けるためには「最低ライン」を決めておくといい。

 

ルーティンをこなす前に疲れ切ってしまったら、ここまではこなしておく、という「最低ライン」があれば続けられる。

まいにち筋トレをしようと思うなら、「腹筋は1セットだけでもやる」とかである。

そして最低ラインをクリアしたらそれで合格とすることも大事である。最低だからもっとがんばらなきゃ、というはダメで、習慣化した後は「がんばらなくても」できるようにするのがいいのである。

 

まいにち投稿で言えば、なんでもいいから、翌日になってもいいから投稿するという感じだ。

 

昨日投稿できず最低ラインを下回ってしまったので、よりハードルを下げてチャレンジするつもりだ。