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ColumbusのたまごColumnブログ

【まい投2020-70日目】将来の夢

芸術家を養いたいという夢がある。

 

自然豊かな土地に真っ白な建物を立てて、広い芝生の庭と、視界が空だけになる屋上もつけたい。閉じこもって創作ができるように、防音室も完備したい。

家のどこで創作をしてもいいし、外泊も自由。食事も3食出そうと思う。

代わりに、作品を世界で2番目に見て、作者からこだわりを世界で最初に聞きたい。甘いお菓子とコーヒーを用意して、うんうん頷きながらでも。

 

興味のある芸術家の方、僕がお金持ちになったら連絡してください。

【まい投2020-69日目】なぜ〜すべきなんですか?

「すべき」「する必要がある」という言葉を安直に使ってしまう私たちは、それをなぜ「すべき」なのか知らない。

「なぜ勉強しなきゃいけないの?」という問いに対して、「将来の選択肢がたくさん持てるからだよ」「テストのためだよ」と答えるかぎり、その答えからは動作の主体が抜け落ちてしまっている。

勉強しなきゃいけないかどうかの判断では、勉強する側が秤を握っている。(それが妥当かの判断力が優れているかは横に置くとして)

 

だから「勉強しなきゃいけない理由」はまず勉強しなきゃいけない人に着せられるはずだ。
「なぜ勉強しなきゃいけないの?」という問いに答えるとすれば、第一義的には「あなたが勉強しなきゃいけないと思うから」である。
「勉強しなきゃいけないと思う理由」を説明するときに初めて、たとえば「将来的な〜」という具体的理由が判断材料として加わる。しかしそれも、あくまでも「〜を善だと思うから」という但し書きつきである。「将来的な〜」は人によっては望ましいことではあるが、望まれているかどうかはその人しか知らない。いきなり一般論から始めると、勉強するか決める側の善悪の判断が置き去りにされてしまうのである。

 

ベイビーステップでこの問いに答えていくとこうなる。

なぜ勉強しなければならないか?
それはわたしが勉強しないといけないと思うからです。
わたしが勉強しなきゃいけないと思う理由は、「将来の選択肢が増えること」が善だ、とわたしが思うからです。

 

どれだけ権威のある客観的事実だとしても、それについて生み出した観念が直接的な判断材料になるので、「なぜ〜すべきか」という問いは結局「〜だと私が思うからです」に行きつく。

地球温暖化」という既知の事柄を耳にしたとき、「憂うべきことだ」だとか「ウソだ」というイメージが頭に立ちこめてから、そのイメージありきの証明が始まる。その証明には正しいと思われる根拠が使われるが、ただイメージの根拠付けのために集められたものである。だから、根拠そのものではなく、根拠に恣意的に付けられたイメージが判断を決めてしまう。

結局のところ、空中に浮いた一般論ではなく、「あなたの判断」がその決断の任を負うのである。

逆にいえば、「なぜ努力しないんですか?」といえ問いがあったとして、

「ごめんなさい努力すべきですよね、努力して自己研鑽して自分の市場価値上げて将来の生活を安定させていかないとですよね。ほんとはやらなきゃと思ってるのにね」と答えたとするなら、答えた側は一般論に判断を委ねまくっている。

一般論と、一般論に自分の判断を下す過程を分離させることではじめて、「すべき理由」がはっきりと見えてくる。自分がやりたいことをやる理由もそこに出てくるだろう。

さっきの悲観的な答えより、「いや努力する必要性感じないんですけど笑」で一蹴してるのほうが心が健康に見える。

【まい投2020-68日目】好奇心が焦燥感を連れてくる

日の終わりに焦燥感がやってくる。あれをやりたかったのに出来てないなと考え出して、今やらなきゃとなる。
結構充実した日の夜でも、ふとやることがなくなった瞬間に「そういえば積んでた本があったな」と普段なら歯牙にもかけないことに意識がいく。試験の前夜に部屋を片付け始めるのと似た心理状態である。

験前夜の勉強からの逃げは、心理学上の言葉で「セルフ・ハンディキャッピング」と説明されている。逃げることで心理的に楽になろうとする防衛機制の一つだ。
試験前の片づけが起こるのは勉強に取り組む前で、いざやり始めると結構続くものである。
勉強をやり始めたとき、自分の意識は手元にあるそのタスクにむいている。ひとたび手元の道具から目が離れると、遠景にピントを合わせることになる。だからやる前とか集中が途切れたときは、タスクをしている間は遠景の内に在ったモノ、つまり漫画とか、散らかった本棚とか、スマホとかに目が行くのである。

れは好奇心が働く格好の条件だ。

見る欲求である好奇心は、「距離をなくしたい欲」ということになる。 視界にとらえた物体Aにピントを合わせ、「バケツか」という一定の理解をしたところでAにこれ以上近づけなくなると、もはやAから欲を満たせなくなって、急激に興味を失う。そして次に焦点にとらえた物体Bに強くひきつけられる。 そうしてA→B→C・・・と目移りする。目移りは、Aがつまんないから仕方なしに、ではなく「距離を取り去りたい欲から来る衝動が視界に入ったものにとにかく向かわせる」イメージのほうが近い。 好奇心に囚われる限り、これを無限に繰り返すのである。

【まい投2020-39日目】無限の好奇心 - ColumPus

好奇心に駆られ始めると、飽きたり疲れたり、やるべきだったタスクが意識に戻ってくるまで、つぎつぎと新たなタスクを見つけることになる。勉強が意識に戻った時、公開とより強い焦燥感に駆られる。いろんなものに駆られまくるなかで、自分を自分でコントロールできない状態に陥っている。

日の終わりにやってくる焦燥感は「あれをやらなきゃな」の「あれ」にピントが合うことでもたらされる、と考えれば、「あれ」を発見する好奇心が焦燥感を連れてくるのだとわかる。
手元にある道具にピントが合いつづけた状態なら、好奇心は卓越しない。「何しようかな」の時間をなくし、決めたことをやって決めた時間に寝る。時間が余った場合にやることを事前に決める。
好奇心がストレスにつながるくらいなら、まして焦燥感から自己肯定感を失うくらいなら、生活から新奇なことを限定して穏やかに生きる方が幸せになれそうに思える。
何か新しいことをしなくてもちゃんと1日は終わってくれるから安心していい。f:id:crowingspear:20201016003644j:plain

【まい投2020-67日目】フィルターを外すことについて【5日目の再考】

5日目の記事にフィルターについて書いた。
フィルターとはメガネの度や色のように、認識や価値判断に差しはさまるクセを指した。
そしてフィルターはわたし自身を知る手がかりになり、手始めにフィルターを外していくのがよい、と結論付けた記事だ。

まだ5日目で言葉の使い方があやふやだったりするが、大意は同じなのでここに紹介する。(今がしっかりしてるとは言ってない)

「すべて高貴なるものは、稀であるとともに困難である」という名言があるように、「真実」という絶対的なものに迫るには、フィルターを知るところから始めるしかない。 「フィルターが何なのか認識すること」は「偏見をこえて真実をみること」なので、同時に自分の個性を知る手がかりにもなるのである。

【まい投2020-5日目】真実はいつも一つで多重的 - ColumPus

はや67日目。この記事からもう2か月経とうとしているが、この間のまいにち投稿から重ねて得たものを手引きとして、5日目の記事を別の言い方で表してみたい。

自分から見て「わたし」はブラックボックスであり、経験を代入して得られた結果を寄せ集め、連立させることでわたしの解像度を上げられる、という主旨で10日目の記事を書いた。
crowingspear.hatenablog.com
経験から直接「わたし」がかたどられるわけではなく、経験から「わたし」の存在を「間接的に」知るのである。

経験は、第一義的には世界のうちに存在するわたし以外の存在者を発見することである。
ここで世界は「わたし」の存在が現れる場所のことを指す。この定義から明らかに、「わたし」は世界の内に存在している。
経験をもとに、「わたし」という行為の主体を含んだ世界観を作るのがPhilosophyたる哲学である。

ここから行為の主体にフォーカスしていくと、自分の行動原理を追い求める道徳や倫理に至る。道徳には必ず行為の主体が付きまとう。誤解を恐れずに言えば、「わたし」がいないところには行動原理は生まれないし、それを追究する倫理も生まれない。「わたし」はフィルターを通して世界を観ているわけなので、わたし特有の行動原理はわたし特有のフィルターをもとに作られる。だからその世界に向いたフィルターを調べていくのが倫理ということになる。

逆に「わたし」のフィルターを排して、遠景としての世界の根本原理を探求するのが多くの学問で、その一つの姿勢が科学である。学問はどこまでも「わたし」のフィルターを取り去り、「誰が見ても同じ世界観」を目指している。誰が見ても同じ世界観はつまり客観で、その視点にはわたしがいない。

冒頭の引用に目をやって、5日目の記事を書いていた過去の自分を思い返してみると、「わたし」特有のフィルターを個性と言い表していた。一方で「真実」という絶対的なものが、この記事で言うフィルターのない世界観に対応している。
(いま思えば客観的が絶対的かどうかは世界観によって違うのでかなり怪しい書き方だった。一方で自分自身そういうフィルターを持っていたと今自覚できた・・・。)
いまここで新しい言葉で5日目の記事を言い換えるなら、フィルターを知るにも、フィルターのない客観を目指すにしても、冒頭の引用の通り、まずは「フィルターを外してみること」である。

【まい投2020-66日目】あなたの解釈ですよね?

論理のしっかりした学問分野として馴染み深い数学は、「定理」がたくさん集まって成立している。数学が成立するまでの手続きはおおよそこうだ。

言葉を「定義」し、「公理」を正しいと信じた上で、定義と公理だけをつかって証明できる事柄を「定理」と呼ぶ。

次に第2の定理を証明していく際「最初に証明された定理」+定義+公理で証明する。

第3・第4の定理も同様にして「定理の数々」+「定義」+「公理」で証明していく。

「定理」の証明には根本的には「定義」と「公理」しか使わないため、正しく証明しさえすれば、「その定義と公理のもとでは」絶対に正しいものになる。

逆に言えば、定義や公理が破綻していたら体系自体がちぐはぐになってしまう。そうならないために、定義をしっかり決め、公理は「疑いようのないこと」に絞る必要がある。

小学校や中学校で習った平面図形という体系の公理には「点Aと点Bを通る直線が少なくとも一つ存在する」というものがあり、確かに証明はできないけど疑いようもなく正しそうである。

 

 

一方でかなり意地悪な言い方をすれば【数学は、数学者たちが決めた定義・公理でスタートしている】から、「別の定義・公理でスタートした論理体系から見ればひとつの解釈に過ぎない」と言ってしまえる。特に公理は「正しいして疑いようのないこと」なので、ブレる余地がある。「あなたの解釈ですよね?」を数学にぶつけるという勇者である。

 おそらくこれが「人によって物理法則は違う」の言わんとするところである。

 

crowingspear.hatenablog.com

 

そりゃ人によって言葉の定義や「絶対に正しい」と思う基準が違うから導かれる定理=世界観も変わるのはわかる。ただ数学みたいな客観の総体を相手にすると事情が違う。

たとえブレる余地のある定義公理といえど、数多の数学者の叡智なのでかなり強固である。深い理解はしていないが、主観でブレるところも織り込み済みなはずである。

個人の論理体系(以下ざっくりと個人の哲学とでも言ってしまうが)は各々違うとはいえ、数学に並んだり上回る体系を持っている、と言ってしまえる胆力は僕にはない。

 

個人の哲学同士を比べたときに「あなたの解釈ですよね?」は現代ではわりと成立する文言ではある。それには個人個人の哲学同士が「同列の価値を持つ場合」という前提がないと、その比重を見誤ってしまいそうだ。

 

 

 

【まい投2020-64日目】人間の味方は人間

人が裸一貫で未開の地に放たれたら、彼は法律から縛られることがない。他の者を殺しても咎める者はいないし、盗みも姦淫もしようと思えばし放題である。彼を縛り付けているものは自分の能力の限界、もっと広く言えば物理法則だけだ。

いいことばかりでもない。命を狩り、外敵を排除しなければ生きていけない。病気や怪我をした時、一気に食料危機に瀕する。

 

もう一人が野に放たれて、その人と協力して生きるようとするなら、二人になったことで生存できる確率が上がる。食べ物の供給も安定するし、一人が病気になっても養生できる。

一方で、協力関係を結んだ段階で自分は「相手を害する権利」を失っていることになる。

互いに取り決めをして権利に制限をかける代わりに生きる確率を上げているのである。

 

人との関係がムラになるとこの取り決めが「掟」になり、国になった時に「法」になる。それにつれ、個人の生命維持は確実になっていく。一人一人のできることに制限をかけるかわりに、死なない安心を得ているのである。この取り決めに守られている限り、人間の一番の味方は人間だ。もっと言えば、人間に一番益をもたらすのは人間と言うことになる。

 

いままで隆盛してきた学問も、生きながらえてきたものは根底に「人間のため」という前提がある。人間が生存しない方向に向かう哲学をもつ学問があったとしても、その哲学ゆえに主流にはなれず、掛け算で減っていく。

その意味で、法律も学問も、その適不適や善し悪しの程度は変わるのかもしれないが、人間にとってその存在意義自体が失われることはない。あえてそれをないがしろにしたり、「人間のエゴ」に絶望するなら、裸一貫で未開の地に戻ってみることをお勧めする。