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ColumbusのたまごColumnブログ

【第7回 #鳥オフ】鳥を″特别″にするには【RR-ワイルド・ヴァルチャー】

自分の鳥カードが″特別″であると示すオフ会、鳥オフ。先月11月初旬に4年ぶりに開催でき、第7回は新しく参加者された方、リピーターの方、運営含め全員楽しんで終われたと思います。運営として携わったオフ会がこんなに愛されて嬉しい限りです。

 

さて、鳥オフが始まって以来6年、私Pmanは《RR-ワイルド・ヴァルチャー》を鳥カードとして選んで参加しています。カードプールの変遷とともに、手を変え品を変え色々な《RR-ワイルド・ヴァルチャー》のデッキを組んできました。好きという感覚を超え、ある意味もう執着とか呪いとかその域に達しているのかもしれませんね(笑)

 

恒例となった、鳥オフ独自の対戦相手への評価システムですが、運営の私も評価していただいていました。(ランキングには参加していません)

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嬉しいことに、18点満点中16.56という高評価をいただき、運営内で1位を取ることができました。俺の鳥が最強や!

 

さて、ブログ記事リレー企画として、鳥オフ運営による鳥デッキの構築方法の提案・例示をテーマに記事を作成しました。これまでの【RR-ワイルド・ヴァルチャー】を振り返って思うことを下に記しましたので、ゆっくり読んでみてください。

鳥オフ前にデッキレシピ例示記事も書いておりますので、そちら併せて見ていただけると嬉しいです。

crowingspear.hatenablog.com

 

 

鳥を″特别″にするには

 

客観視を獲得するともに主観が迷子になるのが青年期であり、人は青年期、そしてモラトリアムにかけてアイデンティティの獲得を目指すものである。こういった時間に遊戯王というゲームしてきた身にとって、アイデンティティの獲得という発達課題への挑戦の苦しみは、デッキ構築にも現れていた。

 

鳥オフというオフ会でデッキ構築をするにあたって、たとえば《RR-ワイルド・ヴァルチャー》であれば、《RR-ワイルド・ヴァルチャー》は誰なんだ?から始めるだろう。そして《RR-ワイルド・ヴァルチャー》にしかできないことは何か。《RR-ワイルド・ヴァルチャー》でなければならない理由は何か。《RR・ワイルド・ヴァルチャー》が″特別″になれるシチュエーションを探して、悪戦苦闘が始まる。

 

面接のための自己分析が苦しいのとまるっきり同じだ。恋人にとって俺でなければいけない理由。御社にとって自分が必要な理由。俺は何のために生きて、どう死ぬのか。人生の目的は。勉強で身につけた客観視を駆使し、この世界で俺が″特別″であるという証明問題を解かなければならないという強迫観念に駆られてしまう。

 

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《RR-ワイルド・ヴァルチャー》を中心にして、相性の良い《ダークネス・シムルグ》《闇黒の魔王ディアボロス》がくっついてきて、それを揃えるためのカード、相性の良いカードが全てのカードプールから候補として挙がってくる。テキストではない。カード達の相関図そのものこそが、《RR-ワイルド・ヴァルチャー》を表す全てである。しかしながら、デッキの中にその全てを内包することはできない。ただ一側面に限定して《RR-ワイルド・ヴァルチャー》の相関図を切り取る作業である。そこに、「俺にとっての」《RR-ワイルド・ヴァルチャー》はこうなんだという観念が、デッキとして形に現れる。

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自分という存在の″形″がレーダーチャートのように確定していく青年期に身につけられる言葉が「俺にとって」という枕言葉である。自分が全世界に対して唯一性を帯びる必要はないという免罪符となる反面、自分の価値観や能力が白日に晒されてしまう恐ろしさとも戦わなければならない。まるでマインスイーパを1マスずつ開けるときのように、ハラハラした気持ちで、「俺にとって」の形を探っていくことになる。その形は、一生懸命身につけた客観視にとって何の意味も持たない。

 

「俺にとって」という唯一性を捨てる免罪符を使用した以上、全世界に対し唯一でなければならなかったデッキは、唯一でなくなってしまう。「人それぞれ」という凡庸な価値観で片付けられてしまう恐ろしさからそのデッキを認めてあげられるのは、迷子になっていた主観しかいない。世界が《RR-ワイルド・ヴァルチャー》を愛さなくても、俺が愛していればいい。

 

この世界で自分の好き嫌いを判断できるのは自分しかいない。価値観の主体を自分に取り戻せたなら、「俺にとっての」という枕詞を使う必要がそもそもない。唯一性を求めないことが罪でなくなった今、免罪符も意味をなさなくなっているはずだ。世界にとって自分が特別であると証明するのが目的ではない。幸にも不幸にも、俺にとって自分は特別でしかあり得ない。

 

つまり、鳥カードが特別になるのはデッキ構築によってではなく、デュエルによってでもない。主観で″鳥″を選んだ瞬間である。あとは、俺にとって見せたいカードの一側面とは?を考えてやるだけ。俺にとっての″特別″のイメージを自分に対して示したものが鳥デッキとなる。

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『″一般論″論』

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自分が見つけた″一般論″を語りたくなった時には注意が必要だ。


そもそも一般論は、一般化を極めれば極めるほど、味が薄くなる。どの地域・どの人種・どの時代にでも通じるような一般論はほとんど語り尽くされて社会通念として溶け込んでいる。誰にでも通ずるような社会通念を説かれることは、パスタを食べながらその茹で汁の品評をしているようなものだ。


「「ニュートン力学のma =Fなる運動方程式」は、かなり広範な運動を記述できる。ただ、その式自身は抽象的で、ma=Fと言われただけでは、それがどんな運動を表しているのかさっぱりわからない″一般論″的な式というわけだ。

バネに繋がれているとか、初速0だとか、限定的な条件を使って、他の可能性を捨て去ることで初めて、眼前にある運動を「味わう」ことができる。


さて、「味付け」は一般論の可能性を捨て去るんだが、同時に話の面白味を増してくれる。

″一般論″を自分が語りたいと思ったなら、多かれ少なかれその論を味わって欲しいはずだ。しかし一般論とは元来無味乾燥なのだから、いわゆる″一般論″の旨さは、限定条件の「味付け」のおかげである。


例えば、あるあるネタが面白いのは「味付け」によって限定した範囲で、限定した範囲内の人に対して語るからであって、今や『3日連続朝が来る あるある探検隊 あるある探検隊』と言っても面白くない。他にも…オードリーがボディビルダーだけに漫才を行ってバカウケするのは、ボディビルダー向けの味付けをネタに仕込んだからだと言える。話は逸れるが、「人それぞれ」という言葉は、かなり味の薄い一般論だ。具体的な話を避け、味の薄い水で流す時に処世術的に使われる、他人との関係を薄くする言葉。

話を戻すと、″一般論″を一般論として面白く語る時、何かしらの味付けを加えている。味付けを加えると同時に、面白味を感じてほしい対象=目的語を小さく絞っているはずだ。

「動物ってのは赤ちゃんを見ると無条件で守ってやりたいと思うものなんだ」とか、「オタクは〜」「若いもんなら〜」だとか。そうして、味付けによって目的語が小さくなった分、相対的に主語がでかくなる。

つまり、″一般論″を面白いと思い語ろうとしたとき、それは必ず主語がでかい話になる。

 

 

わかる?」

 

今年最後の猛暑日。コップの足許を取り囲んでいた楕円形のシミが消えようとしている。

まずいな。へんな喩え話しか頭に入ってこなかった。


「とはいえ、パスタの茹で汁って結構塩味感じちゃいませんか?」


「え、何の話してんの?話聞いてた?」

 

なめてんの?と続きそうなくらいの鋭さでツッコミが飛んできた。咄嗟に笑ってごまかそうとしたが、先輩が望むような表情を出せた自信がない。苦笑いを誤魔化すために飲んだミネラルウォーターは、常温に戻ったからか、それ自身とても甘く感じた。

想いが全てであることについて

怒りとは、6秒しか続かない感情であるという。

 

また、論理は道筋を照らす道具である。その道具を扱うのは人間であり、人間の行動を指針するのはその者が持つ想いである。

逆から辿れば、想いが結論を指針し、人間はその結論を得るために行動する。

嬉しい。ありがとうが言いたい。だから口を動かす。

むかつく。相手を打ち負かしたい。だから拳を振るう。

 

シャカパチや《クシャトリラ・フェンリル》に対して冷静そうに論理をしたためていようと、抱いた怒りに突き動かされている限り、指針立てに6秒も使えていないことになる。

むかつく。非難したい。だからブログにしたためる。

ここで論理は、「したためる」ための道具、手段として使われているだけであり、結論ありきの超短視眼的安易な誤謬に気づかず、指針立てに耳を傾けるだけで、論理の危機に言い訳ができない日々となってしまう。怒りに囚われるのが悪かどうかは別にいいたいことではないんだけど。

 

この「想い→論理」のフローに「止揚」というプロセスを挟んでみる。

生きている限り、一つの想いに囚われ続けることは稀だ。昔言ってた理想論を幼く感じたり、それを幼く思っていた自分をまた青く感じたりするように。

止揚とは、自分の思考Aを一度止めてBという思考で否定し、その否定を乗り越えることでA+にブラッシュアップさせるプロセスのことを言う。

自分が考えていた想いをメタで見つめたときに、「でも」という洞察ができないか。そしてその「でも」に対してカウンターをすることで想いが1段階スパイラルアップする。

 

「このコンボ、最強じゃん!」という激情からデッキを考え始めた後、時間を置くと醒めた目で見えてしまうことがある。チャンスである。

その醒めた目に対して自分なりにカウンターができたときに、気に入るデッキが完成するのではないか。頭の中でケチをつけてデッキを嫌いにさせてくる、紛い物の理性にカウンターできるようになったのだから。

 

自分が何の想いに振り回されてどの結論を得るために考えているのかを意識する。

止揚を、しよう。(結論)

ブログを書く欲求の方向について

言語の存在意義は、価値観を広げることである。言わずもがな、ブログも言語を使って価値観を広げることができるツールである。

 

さて、価値観を他人へと拡げるためには、無為に拡散させてしまうのでは、効果が薄い。価値観を拡げたい人に必要な情報を渡してあげることが必要だ。

「こんなゲーム仲間は嫌だ」というあるあるネタは、「ゲームをする人」に向けて発信される。

すると、「ゲームしない人なら普通の価値観だよ」などと感想を述べる人に対してどうしてもコンテクスト(文脈)を持った情報になってしまう。コンテクストは、その説明がない限り、言語から価値観を汲み取る障壁となる厄介者だ。

論を立てて「説明」をする場合は一般に認められた修辞法を使って情報の純度を高めることで極力コンテクストを排除するのだが、それでも「文章が長い・言葉が固い・使われている言語が読めない・書いた人間にエソスがないなどによって読みたくなくなる」というコンテクストを排除することはできない。「○○論」という一般に流布するための言語を用いていても、私たちが言語を使う以上、誰かに対して障壁を立ててしまうのは避けられないのである。

 

では、あえて言語に高いコンテクストを与えるとどうなるか。障壁によって価値観を共有できない範囲の他人が増える。ラップに馴染みがない人にはラップで書かれた言葉はハイコンテクストな言葉であり、読者側がその価値観を共有するためには障壁を乗り越える必要がある。つまり言語によって読者・受け手側を「分断」することになるのである。

 

分断は障壁外にいる他人からの断絶ではあるが、逆に障壁内の人間との連帯を際立たせる役割を持ち、何の罪悪感もなく日常的に使われる。多かれ少なかれ、コンテクストを伴った言葉を使う限り、私たちも無意識に他人を分断しているのは確かである。例えば、「『草』と言うこと」は「それが笑いを表すとわからない他人」を断絶する目的よりも、「草」がわかる他人との価値観共有が主である。

 

どうしても他人への価値観共有したい人間は、ローコンテクストの言語を用いる必要がある。しかし、ローコンテクストの「誰でもわかるあるある」文章は、「誰でも笑えるお笑いのリズムネタ」みたいなもので、拡散される空間的拡がりが大きくとも一瞬で収縮してしまう。

ハイコンテクスト化を進めた場合は逆で、空間的に拡がらない一方時間的に長く意味を持たせることができる。

ファミレスで他人の家族が「あの時のタカシ、めちゃくちゃ面白かったよな〜」「いやあれはアイツの揚げパンのせいで・・!」と言っていても他の席に座る客には伝わらないし、店の外にいる人間にこの部分だけ音声を聞かせたなら全く意味がわからない、家族だけに閉じたハイコンテクストな言語である。しかし当然、その家族にとっては時間的広がりをもった重要な言語でもある。

 

ハイコンテクストな言語の究極系は、「他人やよそ様に伝わらない」である。この場合、言葉は「価値観を広げる」存在意義を失うであろうか。否。空間的な拡がりを失った一方、時間的な広がりを得るからである。

現実問題として、人間は思考をするために言語を手引きに使用している。自分や自分達の価値観を深化させ、個別具体のエピソードを再構築することで未来の自分へ価値観を広げてゆくために、もはや他人へ言語の障壁を課すことは問題ではない。どちらに向かって・あるいはどれくらいの比率で綴られた言語なのかが問題なのだ。

 

ブログは言語を使って他人や将来へ価値観を広げることのできるツールである。

言語の存在意義はやはり、価値観を広げることなのであり、そしてその欲求が他人に向くとは限らないのは昔から明白なのである。

【#遊戯王AC ディヴィジョン Verse.1】グリコ【5日目Bパート】

この記事は遊戯王アドベントカレンダー2022への参加記事です。
企画詳細は主催者の刺身さんのブログ記事をご覧ください!
sashimimihsas.hatenablog.com
過去記事は刺身さんのツイートから見れます!

昨日の記事はこちらから
Aパート 米ココア
あふれんばかりの機皇帝愛によって描かれたもしも記事。
アドカレだからこそ熱く語れる記事で好きです。
【遊戯王AdventCalendar4日目Aサイド】合体しろ、機皇帝ワイゼル!という妄想 - 米は世界を救う日記
遊戯王(Aサイド) Advent Calendar 2022 - Adventar

Bパート しらこ
長年に亘りくすぶり続けるシャカパチ論争について面白おかしく紐解いた記事です
このシャカパチ論争を終わらせに来た。【遊戯王Advent Calendar 4日目B】 - あるくきんしれー。
遊戯王(Bサイド) Advent Calendar 2022 - Adventar

今年も遊戯王アドカレが始まり、さっそく多様な毛色の記事が続々と投稿されております。
例年通り書く側としてだけでなく、読む側としても楽しめる企画になればいいなと思ってます!
どうぞよろしくおねがいします!!
















Verse.1 -グリコ-


《クシャトリラ・フェンリル》に当たり散らかす症状
馬と鹿ですら理解する力の象徴
曰く、怒りとは続くことはない6秒
例えるなら瞬間でしか善悪を下せぬ臆病

怒り膨らます重曹 詭弁振るってる相手はどこ?
6秒じゃろくすっぽ書けない早漏
あぁ、ゲリラが願ってやまない理想郷?
あぁ、あまりにくだらない願いを投稿

投稿 しても変わらない 読者の興味も6秒
早々大局を見れない 逆さまの戦車と教皇
6秒で何ができる?せいぜい欲求を満たす程度
6秒で何ができる?論理掻き消すストロングゼロ

我見多言の螺旋 ぶり返す駄弁の13年
宿痾、悪性すら自覚できぬネズミ共の野戦
シャカパチ ファン・ガチ 喧しい 結論ありきの超短視
大山鳴動も1フリックでフイ お前も空気の仲間入り

迫り来る決断の連続 「決闘は人生に相当?」
目指すは効率思考の視野 aだけ最強の直線
お前がかけてる靄 心地いい蛙 井の中
興味は6秒で頭打ちな お前に相応の趣味だな
現状維持が最大値 つまり「お前の人生」には相当

《クシャトリラ・フェンリル》 からの逃避行
ほらこちらワン公 言い訳のおかわりはお利口
お前たちは鳥観図の中 目指したのは所詮隣のムラ
どうせ次の新弾が最後 さらば 絨毯爆撃を決行




紙を束ねた一本槍 築いた城ごと燃えて終わり


www.youtube.com


俺たちには手段に過ぎない遊戯王 階段の前のグリコ
繋いでいるのは城じゃなくOur steelo
相手にしてるのはカードじゃなく人間だろ?
歴史家となり探る 相手の人となりを

カッ飛ばすマイカー 法定速度弾丸ライナー
物量ビブロフィリア 駆けるチーズイーター
解像度リーダー 紅の靴擦れウォーカー
愛を見つけた大吉山 集えSunday night fever

費やしたその紙切れ 対して俺の20万は思い出
My 春夏秋冬 w/ ヴィヴァーチェ! 四重奏は次の曲へ
Hater達のprops 此方に舵を切っても手遅れ
俺達は既に『特別』所詮切れるのは大見得

終わらすぜ 時計を見ない 空間の広がりの諍い
俺たちが見てるのは未来 と金賞を目指した誓い
消して行く 靴の下 燻ってる「いかがなものか」
気にするのは6秒どころか 来年はどこに行こうか




12月6日のパートを担当されるのは次の二人です。お楽しみに。
Aパート 歩く教会
デッキやコンボ紹介記事を書くブロガーで、去年のアドカレにも参加されています。

Bパート じろうちゃん
デュエル動画・ブログとマルチに活動し、遊戯王アドカレにも複数回参加経験がある方です。
今日を変え、一生を変える構築を



Bサイドにはまだ枠があるので 熱いアンサーラップを待ってます。
遊戯王(Bサイド) Advent Calendar 2022 - Adventar

まいにち投稿2020について雑感

今年のまいにち投稿が83日目でおわった。日々思いついたことを書くスタンスで書いてきたところ、こんなに長くなってしまった。
「ねるまでに投稿をする」「内容は無くてもいいしなんでもいい」「投稿できなかったらできなかった記事を書く」くらいの縛りで1か月間続けばいいなと思って始めたわけだが、書きたいことが尽きなかったためズルズルと続いてしまった。内容がなくなったりルールを破ってしまった日は、体力的・精神的に余裕がなかった日である。最近生活につらみがあふれているのを記事の投稿状況によって再確認している。


今年のまいにち投稿の最初の記事は『「書く」欲求の燃料』。どうやら自分は「なりたい自分になってほしい」という思いで書いているようで、今年は自分を含めたそういう人のためになればと思って記事を書き始めたのであった。


パチパチパチちょこコーラを食べながら書いていたのが
プラネタリウムの世界観だ。プラネタリウムのようなドーム状の視界を持っていて、物自体の一側面を切り取った画像を目に入れているに過ぎない、という認識方法である。
世に出ている認識論からは色んな話の展開ができるわけだが、ドームの空間内にいる「自分自身="わたし"」の判断と「自分だけど"わたし"じゃない別の存在」の判断が混在しており、それらを取り違えてしまうと苦しい、という方向で話を進めた。
この話、まいにち投稿開始前からうっすらと構想があった。やっと形にできたうれしさの中で食べたチーズチーズチーズは最高だった。

"わたし"自身の判断は「経験」に根差した判断だと考えた記事が天と地の違いだ。
逆に経験とつながりのない知識や、経験が薄まった高度な知識をもとにした判断ほどわたし以外のものに判断を預けてしまう=囚われることになる。このごろ食べたのがイタリアンプリンアイスバーだった。

とはいえ、囚われること自体は第一義的には善悪の価値はない。
"わたし"をかなぐり捨てて視界を覆い隠してもらうあいだ、方法論的に囚われることは救いともできるのである。
自分を囚える存在の一つとして、好奇心を例に挙げた。
無限の好奇心が自分を支配する限り、新たなものに目移りし続ける欲に囚われ続ける。欲である以上ものすごいエネルギーにもなるが、同時に理性たる"わたし"とバッティングしたときに苦しみを負うことになる。
僕の記事では結構好奇心を悪者扱いしていて、好奇心が焦燥感を連れてくるとか好奇心と空気分子などこれがまいにち投稿のメインテーマになるくらい書きまくっているが、あくまでも苦しみを負う人が好奇心を一度手元に置いてみてはどうかな、という意図であって、それ自身の威力や効用を否定するつもりはない。

"わたし"の経験に根差した判断のあるところに自分の存在が現れるのだとしたら、経験の場所が変われば自分は別ものの存在として現れることができる。話題のバーチャル存在でもそうだし、わたしたちも日常的に「SNSの複アカのツイートの違い」で体感していることである。父親であり上司であり部下で、高校のOBの男性がいたとして、その立場によって振る舞いを変えるのは存在が現れる場がそれぞれ違うからで、別の世界にログインしていることに喩えられる。これを人生複アカ理論としたのであった。
ここから「バーチャルな現存在」や「単なる方法論としての哲学」「アイデンティティ」などというテーマに派生させていく予定だった。そしてついにあふれるチーズのチーズドッグを最後にガス欠みたいな感じでまいにち投稿2020が終了した。


息抜き記事も(食レポ以外)特になく硬い文章で押し通したのは去年までにない試みだった。哲学書を読み始めた時期でもあったので、未完成ながらもそれをかみ砕きながら自分の人生に投影して書いていた節はある。何者かに何となく強制される感覚で生きていたところから、主観としての″わたし″を取り戻せたり、好奇心の悪い一側面を発見できたことは自分の人生の中でも大事件だった。
内容としてはかーーーーーなりとっつきにくいのにひどく拙い記事の数々だなあと我ながら思いはするけれども、個人的には実りの多い83日間だったと思う。
また、はてなスターとかTwitterのいいねRTをくれた方々に元気づけられたおかげで継続できた面も大きいと思う。ありがとうございました。
いまからでもとてもうれしいのでスターとかコメントとかリプとか引用RTとかDMとかください


12月に「遊戯王AdventCalendar」というブログリレー企画に参加するので、来月はそのための記事をゆっくり書いていこうと思っている。書く側としてもだが、読み手としてもいろんな遊戯王に触れられて楽しい企画なのでお楽しみに!!
主催者の刺身さんによる企画概要
sashimimihsas.hatenablog.com

【まい投2020-81日目】「思うを使うな」という呪い

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『「〜だと思う」を使ってはいけない』という漠然とした強迫観念めいたものを持っていた。

思う・感じるを使うと「文章や口に出して何かを伝えるときにわかりづらくなるから断定の『〜だ』を使え」と学校でよく教えられると聞くし、僕もそう聞いた。実際「Aだ」「私は『Aだ』と思う」を比べると後者は文章が入れ子構造になっていて情報量が多いし、どこにフォーカスを置くかで意味がブレるのは確かなことである。実際のところ「思う」ときは「思う」ので、「思う」しか書けないじゃんと感じているし、ブログ記事を書くことが増えてきたここ数年で、罪悪感がやっと薄れてきたところである。

 

「意見と事実を分けて考えなさい」とよく聞く。「思う」は「意見」にもなり「事実」にもなるところが聞く側にとって厄介なところなのだ。

  • 「考える」に似た意見の「思う」

「思う」に対する英語の対訳として「think」があり、そこに「考えを述べる」という動作が付随するごとく、判断を介した自分の意見という意味である。意味としても「考える」に近い。

その「思う内容」を組み立てるのは各人の論理だったり、感覚とか感情に引っ張られながらこねくり回した一連の言葉の数々だったりする。こうした中で発生した心とか精神の動きを、自分なりのに組み立てた言葉を紡いで述べることで意見が伝えられる。意見そのものは主観的な感覚から述べたものでも、客観的な論理に沿ったものでも「意見」として成立はする。

感情というわたしたちの内部で発生する刺激が感覚器官にはたらいた結果、後者の「思われる」的な意味になることもある。

 

  • 「〜に思われる」という「自発」の「思う」

物自体を認識した印象を直接言い表すほうの「思う」である。受動態で使われることが多い。英語で言うと「seem」が該当する。「〜に見える」see「〜に聞こえる」hear「〜に感じる」feelみたいな知覚動詞と同じように、感覚器官で受容した情報をそのまま伝えているイメージだ。それはある意味で強弱で計れる意味で数字のような客観性があり、「事実」に近い伝え方ができる。主観的な事実と言える。

この「思われる」は、「感じ」はするけど私の判断はそうとは限らないというニュアンスが可能なように、まだ自分の判断を介さず、頭で噛み砕いていないないことを示唆している。

 

「考える」は、主観的意見or客観的意見で、

「思われる」は主観的事実とまとめられる。

本来の意味で断定「〜だ」を使えるのは「客観的事実」だけである。

『「思う」を使うな』は、意見として使われる前者の「思う」に対して向けられているのだろう。

評論文のライティングなどでは、単純明快に意見を書くために入れ子構造みたいな複雑な文を嫌う。要は、単にそのほうが伝わりやすいよ、という方法論としての「使うな」なのである。

 

後者は自分の感覚で、もとより「判断を介した意見」ではなく、感覚から判断を練り上げるためのものである。

「使うな」が漠然と心に残った僕のような人がいたとすると、主観的事実の「思う」が取り去られて「自分の感覚」を素材にして「判断」を練り上げる力が失われる。「判断」から自分の感覚が断絶されると、判断材料が真に客観的な情報しか無くなってしまう。「〜したいと思う」とか「〜が好きだ」ではなく、「〜が正しい」「〜が多い」「〜が好ましいと言われている」みたいな客観的事実でしか判断を練り上げられなくなる。

こうして練り上げられた自分の感覚を介さない「客観的判断」と言えるモノが、自分の感覚を介さない「客観的意見」を作り上げる。

こうして「僕は思わないけど、自分の判断はコレ」が成立する。それって誰の判断なの?

 

自分の感覚を断ち切った判断を意見に織り交ぜること自体は、方法論として優れているとは思うし、大昔から学問の一大テーマとして偉大な人々が研究してきたことだ。

僕の場合、漠然とした「使うな」がこびりついたままになったので、まさに「僕は思わないけど〜」状態に陥り、客観的な判断をこねくり回すばかりになってしまった。自分の感覚から意見を作れなくなったので、客観的意見と矛盾して行き場を失った「好き」「嫌だ」「助けて」が、底の方に溜まっていたのだと思う。

泣くのはみっともない」から泣かないし、「しっかりしないといけないからしっかりする。

 

曲解に曲解を重ねた「思うを使うな」は「思うな」に変わり、自分を縛る呪いになっていたように思われる。