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ColumbusのたまごColumnブログ

まいにち投稿2020について雑感

今年のまいにち投稿が83日目でおわった。日々思いついたことを書くスタンスで書いてきたところ、こんなに長くなってしまった。
「ねるまでに投稿をする」「内容は無くてもいいしなんでもいい」「投稿できなかったらできなかった記事を書く」くらいの縛りで1か月間続けばいいなと思って始めたわけだが、書きたいことが尽きなかったためズルズルと続いてしまった。内容がなくなったりルールを破ってしまった日は、体力的・精神的に余裕がなかった日である。最近生活につらみがあふれているのを記事の投稿状況によって再確認している。


今年のまいにち投稿の最初の記事は『「書く」欲求の燃料』。どうやら自分は「なりたい自分になってほしい」という思いで書いているようで、今年は自分を含めたそういう人のためになればと思って記事を書き始めたのであった。


パチパチパチちょこコーラを食べながら書いていたのが
プラネタリウムの世界観だ。プラネタリウムのようなドーム状の視界を持っていて、物自体の一側面を切り取った画像を目に入れているに過ぎない、という認識方法である。
世に出ている認識論からは色んな話の展開ができるわけだが、ドームの空間内にいる「自分自身="わたし"」の判断と「自分だけど"わたし"じゃない別の存在」の判断が混在しており、それらを取り違えてしまうと苦しい、という方向で話を進めた。
この話、まいにち投稿開始前からうっすらと構想があった。やっと形にできたうれしさの中で食べたチーズチーズチーズは最高だった。

"わたし"自身の判断は「経験」に根差した判断だと考えた記事が天と地の違いだ。
逆に経験とつながりのない知識や、経験が薄まった高度な知識をもとにした判断ほどわたし以外のものに判断を預けてしまう=囚われることになる。このごろ食べたのがイタリアンプリンアイスバーだった。

とはいえ、囚われること自体は第一義的には善悪の価値はない。
"わたし"をかなぐり捨てて視界を覆い隠してもらうあいだ、方法論的に囚われることは救いともできるのである。
自分を囚える存在の一つとして、好奇心を例に挙げた。
無限の好奇心が自分を支配する限り、新たなものに目移りし続ける欲に囚われ続ける。欲である以上ものすごいエネルギーにもなるが、同時に理性たる"わたし"とバッティングしたときに苦しみを負うことになる。
僕の記事では結構好奇心を悪者扱いしていて、好奇心が焦燥感を連れてくるとか好奇心と空気分子などこれがまいにち投稿のメインテーマになるくらい書きまくっているが、あくまでも苦しみを負う人が好奇心を一度手元に置いてみてはどうかな、という意図であって、それ自身の威力や効用を否定するつもりはない。

"わたし"の経験に根差した判断のあるところに自分の存在が現れるのだとしたら、経験の場所が変われば自分は別ものの存在として現れることができる。話題のバーチャル存在でもそうだし、わたしたちも日常的に「SNSの複アカのツイートの違い」で体感していることである。父親であり上司であり部下で、高校のOBの男性がいたとして、その立場によって振る舞いを変えるのは存在が現れる場がそれぞれ違うからで、別の世界にログインしていることに喩えられる。これを人生複アカ理論としたのであった。
ここから「バーチャルな現存在」や「単なる方法論としての哲学」「アイデンティティ」などというテーマに派生させていく予定だった。そしてついにあふれるチーズのチーズドッグを最後にガス欠みたいな感じでまいにち投稿2020が終了した。


息抜き記事も(食レポ以外)特になく硬い文章で押し通したのは去年までにない試みだった。哲学書を読み始めた時期でもあったので、未完成ながらもそれをかみ砕きながら自分の人生に投影して書いていた節はある。何者かに何となく強制される感覚で生きていたところから、主観としての″わたし″を取り戻せたり、好奇心の悪い一側面を発見できたことは自分の人生の中でも大事件だった。
内容としてはかーーーーーなりとっつきにくいのにひどく拙い記事の数々だなあと我ながら思いはするけれども、個人的には実りの多い83日間だったと思う。
また、はてなスターとかTwitterのいいねRTをくれた方々に元気づけられたおかげで継続できた面も大きいと思う。ありがとうございました。
いまからでもとてもうれしいのでスターとかコメントとかリプとか引用RTとかDMとかください


12月に「遊戯王AdventCalendar」というブログリレー企画に参加するので、来月はそのための記事をゆっくり書いていこうと思っている。書く側としてもだが、読み手としてもいろんな遊戯王に触れられて楽しい企画なのでお楽しみに!!
主催者の刺身さんによる企画概要
sashimimihsas.hatenablog.com

【まい投2020-82日目】あふれるチーズのチーズドッグ【セブンイレブン商品紹介】

声に出して読みたい日本語の一つに加えたい。

あふれるチーズのチーズドッグ」。 

「チーズの入ったチリドッグ」みたいな、申し訳程度に一応チーズ入ってますよ~ではなく、妥協せずにチーズを盛りまくった正真正銘のチーズドッグである。多すぎて既定の加熱時間では一部チーズが融けきらないほどであった。

あふれるチーズのチーズドッグ |セブン‐イレブン~近くて便利~

 

 

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味の強いチェダーチーズ・さわやかなゴーダチーズ・弾力のあるモッツァレラチーズが融けあって口に流れ込んでくる。チーズを食べているのにチーズにおぼれそうになる。

ここまでやるかと思うほどの圧倒的なボリュームのチーズに、アクセントとして香りの強いパルメザンチーズが後を引く。というかずっと残る。パルメザンチーズだけ30分くらいにおいが残った。

 

チーズ以外の要素を説明するのも野暮なほどにストイックにチーズを味わえた。

 夏ごろ売られていた「チーズチーズチーズ」の正統進化と言える出来である。

crowingspear.hatenablog.com

 

この「あふれるチーズのチーズドッグ」、なんと503kcalである。進化前の「チーズチーズチーズ」が524kcalだったので、21kcalのカロリーオフに成功しているのだ。「あふれるチーズのチーズドッグ」を100個食べれば、2100kcalものカロリーを控えられる。これは成人男性の1日分の摂取カロリーに相当する。「あふれるチーズのチーズドッグ」を余計に4つ食べられる計算だ。

チーズ感を増しながら健康にも配慮する、セブンイレブンの企業努力には脱帽である。

 

 

 

【まい投2020-81日目】「思うを使うな」という呪い

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『「〜だと思う」を使ってはいけない』という漠然とした強迫観念めいたものを持っていた。

思う・感じるを使うと「文章や口に出して何かを伝えるときにわかりづらくなるから断定の『〜だ』を使え」と学校でよく教えられると聞くし、僕もそう聞いた。実際「Aだ」「私は『Aだ』と思う」を比べると後者は文章が入れ子構造になっていて情報量が多いし、どこにフォーカスを置くかで意味がブレるのは確かなことである。実際のところ「思う」ときは「思う」ので、「思う」しか書けないじゃんと感じているし、ブログ記事を書くことが増えてきたここ数年で、罪悪感がやっと薄れてきたところである。

 

「意見と事実を分けて考えなさい」とよく聞く。「思う」は「意見」にもなり「事実」にもなるところが聞く側にとって厄介なところなのだ。

  • 「考える」に似た意見の「思う」

「思う」に対する英語の対訳として「think」があり、そこに「考えを述べる」という動作が付随するごとく、判断を介した自分の意見という意味である。意味としても「考える」に近い。

その「思う内容」を組み立てるのは各人の論理だったり、感覚とか感情に引っ張られながらこねくり回した一連の言葉の数々だったりする。こうした中で発生した心とか精神の動きを、自分なりのに組み立てた言葉を紡いで述べることで意見が伝えられる。意見そのものは主観的な感覚から述べたものでも、客観的な論理に沿ったものでも「意見」として成立はする。

感情というわたしたちの内部で発生する刺激が感覚器官にはたらいた結果、後者の「思われる」的な意味になることもある。

 

  • 「〜に思われる」という「自発」の「思う」

物自体を認識した印象を直接言い表すほうの「思う」である。受動態で使われることが多い。英語で言うと「seem」が該当する。「〜に見える」see「〜に聞こえる」hear「〜に感じる」feelみたいな知覚動詞と同じように、感覚器官で受容した情報をそのまま伝えているイメージだ。それはある意味で強弱で計れる意味で数字のような客観性があり、「事実」に近い伝え方ができる。主観的な事実と言える。

この「思われる」は、「感じ」はするけど私の判断はそうとは限らないというニュアンスが可能なように、まだ自分の判断を介さず、頭で噛み砕いていないないことを示唆している。

 

「考える」は、主観的意見or客観的意見で、

「思われる」は主観的事実とまとめられる。

本来の意味で断定「〜だ」を使えるのは「客観的事実」だけである。

『「思う」を使うな』は、意見として使われる前者の「思う」に対して向けられているのだろう。

評論文のライティングなどでは、単純明快に意見を書くために入れ子構造みたいな複雑な文を嫌う。要は、単にそのほうが伝わりやすいよ、という方法論としての「使うな」なのである。

 

後者は自分の感覚で、もとより「判断を介した意見」ではなく、感覚から判断を練り上げるためのものである。

「使うな」が漠然と心に残った僕のような人がいたとすると、主観的事実の「思う」が取り去られて「自分の感覚」を素材にして「判断」を練り上げる力が失われる。「判断」から自分の感覚が断絶されると、判断材料が真に客観的な情報しか無くなってしまう。「〜したいと思う」とか「〜が好きだ」ではなく、「〜が正しい」「〜が多い」「〜が好ましいと言われている」みたいな客観的事実でしか判断を練り上げられなくなる。

こうして練り上げられた自分の感覚を介さない「客観的判断」と言えるモノが、自分の感覚を介さない「客観的意見」を作り上げる。

こうして「僕は思わないけど、自分の判断はコレ」が成立する。それって誰の判断なの?

 

自分の感覚を断ち切った判断を意見に織り交ぜること自体は、方法論として優れているとは思うし、大昔から学問の一大テーマとして偉大な人々が研究してきたことだ。

僕の場合、漠然とした「使うな」がこびりついたままになったので、まさに「僕は思わないけど〜」状態に陥り、客観的な判断をこねくり回すばかりになってしまった。自分の感覚から意見を作れなくなったので、客観的意見と矛盾して行き場を失った「好き」「嫌だ」「助けて」が、底の方に溜まっていたのだと思う。

泣くのはみっともない」から泣かないし、「しっかりしないといけないからしっかりする。

 

曲解に曲解を重ねた「思うを使うな」は「思うな」に変わり、自分を縛る呪いになっていたように思われる。

 

【まい投2020-80日目】犠牲という名の依存

打てば響く鐘という言葉があるが、打ったとおりに響くだけが鐘ではない。
xという強さで叩かれたとき、yという振幅で触れるとしよう。
誰かの意向に立ち向かう反抗は、y=-xのグラフのように、xに対してyが反対の値をとり続けようとすることだ。
打てば打つほど減衰して響かなくなる  \dfrac{1}{x} 、という防衛反応もまた、xに依存して響いていると言える。
いずれにしても、叩くという入力xに依存した響き方をしているという意味で、なべてこれらは「打てば響く」にくくられる。

反抗は往々にして依存からの脱出を目指すが、反抗者が目指すのは打たれても響かない鐘で、y=0のことを言う。
叩く方は鳴り響く音を求めているわけで、音が出ないとなれば彼はまた叩くだろう。次やその次もy=0を続けられる人はそういないと思う。
見落としがちだが、依存しない方法は「響かないこと」だけではない。「打てば響くがどんな打たれ方をしても同じ響き方をする鐘」もまた依存しない鐘である。つまりy=定数だ。

つい反抗したくなってしまうことを含め、叩かれて反応する・また無反応でいようと努めてしまう限り、自分はその人に依存してしまっている。同じ響き方で居続けること、虚心坦懐に接することが依存しない方法であって、無視すること・遠ざかろうとすること・逃げること・攻撃すること・支配しようとすること諸々はそれぞれ「依存の一形態」に過ぎない。結局、その人を拒絶することはむしろ依存につながるのである。

人は意識せずとも何かに依存して生きていて、何者にも考えを預けずにいるのは真っ暗な荒野に一人でいるかのように心細いだろう。覚悟とは、そのような状況であっても自分の道を進む者に宿る。「犠牲の心」も「~のために犠牲になる」という意味で依存した心であって、やっぱり「覚悟とは犠牲の心ではない」と改めて思うのである。

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画像はイメージです

まいにち投稿じゃない記事

このごろウィルパワーが減退してきてブログにエネルギーを消費するのもしんどくなってきたのだが、いい記事を読んだら気持ちだけは盛り上がってくる。アツい・・・!

 

自分も頭の中から湧き上がってくるアレコレを言葉にしてブログページにぶつけたい・・・あわよくば誰かに読んでもらいたい・・・このごろごまかしで書いた(?)記事を読み返して結構怒りに近いものがこみ上げた。

かわり映えのしない毎日は多分、こういうところから始まる。考えることを減らしていけば考えられるキャパシティは増えるが、その精神的安寧に自分を全て委ねて、考えるのをやめるとせっかく空けたワーキングメモリが無駄になる。やるときは絞る。最近これを忘れていたかもしれない。

自戒を込めてどころか自戒だけの覚書である。

 

 

【まい投2020-79日目】継ぎはぎの地図とパッチ

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地図を作るのに必要なのが測量だ。

測量によって直接測っているのは線分の「距離」、「基準線に対する角度」、「高低差」である。線分だから測量士は大抵2人1組で仕事をしている。彼らは高々数十メートル離れた2点の「距離・角度・高低差」の測定値を、地図が埋まるくらいの数積み重ねて地図を作っているのである。すごい・・・。

 

狭い土地の場合は「平面測量」という方法で測量でき、たとえばひとつの市の中の小さな自治体の地図はこれで作られることが多いし、土地の登記に必要な広さならこの方法で賄える。(それでも大変な作業量なのだが)これが市全体とか県単位の地図だと、とても2人1組で測量して回れないほどになる。どうしても、Aの組とBの組が作った地図を合わせてA+Bの大きな地図を作る必要が出てくる。

 

さて、A組の測量した池からB組の測量した山までの標高差を知りたいとしよう。

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厳密に言えば、A組の測量方法とB組の測量方法は(測量士のクセレベルの細かさで)異なる。Aさんは以下の測量が得意だが山の方は苦手だったりするかもしれない。A範囲の地図とBの範囲の地図をそのままぴったり合わせて正しい地図になるとは限らない。

(実際には測量士自体が国家資格で、そんなことはほとんど起こらないようになっている)

地図をひとつの基準に合わせるためには、AならBの土地をこうやって測量するだろうという変換がわかれば良い。つまりBの測量をAの方法に翻訳するための「辞書」が必要になる。この辞書はAの地図とBの地図の「パッチ(つぎあて)」としてはたらく。

 

ここからはたとえ話。

学問とか哲学とかで唱えられる「理論」「世界観」には、得意分野と不得意分野があると僕は思っている。

たとえば物理の力学での話。我々の生きるスケールでは「ニュートン(古典)力学」で考えるとうまくいくことがほとんどだ。ところが10^-10 mもの小さい世界になるとニュートン力学でうまく説明できない現象がたくさん出てくる。これを説明できるのが量子力学である。逆に途方もなく大きい距離スケールでは相対性理論で説明するとうまくいく。

それぞれ違う3つの理論で3つのスケールでの力学が考えられるのであるが、それをひとつの尺度で説明するためには、

量子力学ニュートン力学相対性理論

の間を継ぎ合わせる「パッチ」があれば便利である。

 

別に学問に限らず、一人一人の哲学=平たく言えば「考え方の違い」にも「パッチ」があれば便利なのに、と思う。

考え方や伝え方に違いはあれど、測量が得意な範囲が違うように、自分には測れない世界をBさんが知っていたりするかもしれないのである。

翻訳の手引きとなる「パッチ」があれば、Bさんの言うことを誤解なく理解できるし、彼にしかできないことをリスペクトしやすいよにな、と思ってやまない。

そしておそらくその「パッチ」は、雑談だったり共通の趣味だったり、共有する価値観だったりするんだろうなとうっすら思っている。